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沢江より床の海を眺める

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 仙崎湾は場所によりその呼び方が変わる。今回は沢江から観た風景を載せる。 この地(沢江)は古くは「袖の湊」と云われ古来詩歌に詠まれたものが少なからずある。そして沢江湾は「床の海」、三隅川尻を泪川、とした和歌もある。 床の海に流れて落つる泪川 袖の湊にさわく名もうし・・・醍醐入道 青海島の山々を臨む 小島の先、和田の鼻 沢江の海岸 大阪住友セメントベルトコンベア ここで水を差すような話をすると、昭和40年代後半から50年代にはこの辺りでは異臭がして自転車で通ることが本当につらい時期があった。当時は今のバイパスが無かったためどうしてもこの臭いを嗅いで3年間通学するしかないわけで、小浜峠の旧焼却場の悪臭と共にダブルパンチをくらっていた時代だった。 当時を思うと今は全く臭わないし風景もきれいになってきた。村田清風翁の観た風景を観てみたいものだ。

三隅の祠とお地蔵様~二条窪の祠

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 「二条窪」と書いたが三隅町の頃の資料には「二條窪」と記されている。当集落の方に聞いてはみたが何時から「条」の字を充てたか不明とのこと。 以前に二条窪の祠は書き込んだことがあるが祠の名?が不明だったので今回新たに書き残す。 最初は春祭の「柳ヶ森祠」 次に秋祭の「荒神祠」 今年の夏祭に同行させていただき、その様子を撮影できた。(感謝!) お祭りの準備は手際よくされた。 そして夏祭の「大神祠」 神主さんと集落の方々が山道を登っていく。以外に森の中は涼しい。 一旦尾根まで上がって少し下がった斜面に祠が鎮座されている。 実はこの山道は尾根から先は才ヶ峠から奥畑、さらには真木集落へ抜ける道で過去には人々の行き来があった道だ。現在の県道268号線で石原峠を越えて行くより才ヶ峠を越えたほうがずっと早く真木集落へ行けたはず。 ところで上の地理院地図に書き込んだ二条窪の祠の位置を見るとほぼ一直線状に並んでいる。意図的なものかどうかは分からないが無意味ではないように思えたりする。

昭和39年の時刻表から

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 昭和40年代半ばから一人で汽車に乗っていた記憶があるのだが当時の列車や駅の記憶がうろ覚えの部分があり、50年代の記憶と交ざってはっきりしないことが増えてきた。半世紀以上前の事だから当然かもしれないがそれにしても情けない。 ところで何年か前に書店に立ち寄った時に1964年の「国鉄監修時刻表」(復刻版)に目が行き、すかさず手にした。そしてしばらく本棚に置いたままだったそれを久々に手に取って山陰本線のページを眺めた。 山陰本線 下り 切り抜き1 長門市や下関の駅名表示の左側の記号が懐かしく、今残っているものは何もない。 これらの記号(マーク?)の中で駅弁マークだけは2018年頃まで確か残っていたように思うが「洗」、「電報」、「赤帽」は見ることはなくなった。 「洗」マークは蒸気機関車全盛時に煤で汚れた顔を洗うための洗面台がホーム上にある駅を表している。長門市駅のものはそれを知らずに飲料水と思って飲んでいたような記憶がある。けっしてトイレマークではありません。 「電報」マークはその言葉の通りだが当時の電電公社のものなのか、国鉄独自の通信線による駅間同士の電報?なのか分からないが、漁協会館などにも電報や電話マークが入口に貼ってあったことは覚えている。現在でも電柱やマンホール等に同様のマークが残っている。 「赤帽」マークは大構内を抱えた駅や全国の主要駅などに在ったように記憶しているが、乗客の手荷物を駅構内やホーム上へ運ぶサービスだがそのサービスをする方たちが赤い帽子をかぶっていたことに由来する。下関駅に赤帽さんがいた記憶が自分にはなかったが当時エスカレーターやエレベーターが無い時代、ホームが高い位置にあったため赤帽さんがいても不思議はない。昭和50年代に東京駅でそれに近い方(赤帽さんだったのかも?)を見た記憶はある。 そして「弁」マークの駅弁販売のある駅のこと。今の時代「旅行」というより「移動」という言葉のほうがふさわしくなってきていて駅弁という文化が鉄道から消え去ろうとしている。特に地方においては列車の中で駅弁を食べる風景は見たことがない。食べれるような列車が無いことが一番の問題?だが、わが町を通る山陰本線は特急列車や急行列車が消え去り長距離を走る列車が皆無だ。つまり食事をするほど長く乗って行ける列車が無いのだ。当然駅弁を作っても買ってくれる客がいない。 話は変わるが...

浅田の薬師堂のこと

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 三隅にはその昔、薬師如来を祀った薬師堂が4箇所あったと聞く。宗頭、生島、久原、浅田の薬師堂で現在は生島の薬師堂だけが残っている。 ご縁があって今回はその中の浅田の薬師堂とお薬師様(薬師如来)のことを書き残す。 集落センター内の様子 現在は浅田の薬師堂建屋は撤去され、ご本尊は浅田集落センターの中に移されて毎月8日に野波瀬の東善寺住職がお勤めに来られていると聞いた。元は集落センター傍にあった火見櫓(ひのみやぐら)の下に薬師堂はあったとのこと。(私有地) 在りし日の薬師堂(三隅の辻堂より) さらに昔はお堂の南側に在った法福寺というお寺の一画として納められていたとのこと。さすがにこれは知る由もない。 ここで集落センターの薬師如来をズームアップしてみると・・・ 確かに薬壺を手に持たれている。 薬師如来は人々から病や苦しみを取り除き幸せをもたらす仏様として信仰されており、まさに仏像界のお医者様だ。 [後記] この薬師堂が存在していたころは薬師如来と一緒に阿弥陀如来と法然上人が祀られていたと記録されている(三隅の辻堂)。最初の集落センター内の写真に写りこんでいるうちのどれがそうなのか筆者にはわからない。勝手な想像だが左端の立像が阿弥陀如来でその隣が法然上人かもしれない。はっきりしたらこの場で修正をします。

三隅の祠とお地蔵様~浅田向山

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 浅田集落のすぐ東側に標高42mの山がある。浅田の人々が「向山」と呼ぶ周布政之助の墓がある山だ。 その小山の北中腹に鎮座する石仏のことを調べたがその謂れが不明のままだ。 周布政之助の墓の北側の鞍部辺りにももう一体の石仏が在った。お墓番のような位置に鎮座されている。こちらも周布家と何か縁があるのかもしれない。 集落センター前の地蔵堂から向山を臨む 浅田地蔵堂のお地蔵様 浅田集落センターの前のお地蔵様はいつもお世話が行き届いている。 近いうちに浅田の薬師堂のことを書き留めておこうと思ってはいるが、お堂自体がすでに無くなっている。画像を捜索中だ。 浅田向山の全体像

日本橋という橋のこと

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 今暮らしている町の景観を思うときに、昨年あたりから山陰道三隅・長門道路完成後の景観のことを考え出した。勝手なもので山陰道の萩・三隅道路が開通したときはあまり気にならなかったが今回は身近なエリアであるが故に気になることが多い。 他の箇所で言うとリニアモーターカーのルートや下関・北九州道路等も気にはなるところだ。他所(よそ)の事でけっこう興味深く追っているのが「首都高速の日本橋地下化」の件で、街道好きの筆者にとっては見逃せない事柄で、今回は自己の研鑽をふまえてお江戸のことを少し書いてみる。 以上の写真は2009年~2010年の頃の日本橋とその上を川に沿って走る首都高の様子だが、自分が初めて日本橋を見た1976年の頃からほぼ変わっていない。自分にとっての日本橋は上に首都高のあるこれらの風景と、そして歌川(安藤)広重の東海道五拾三次の日本橋の風景なのだ。(記念切手:国際文通週間1962.10.7発行) 歴史を紐解くと1603年に江戸幕府開府とともに日本橋が架けられ、次年に旧五街道の起点とされた。1963年(東京オリンピックの前年)に橋の上空に首都高速道路が開通した。昭和38年の事だ。国際文通週間「日本橋」の切手が発行されたときには上空に首都高が無かったか建設中だったわけだ。 首都高速をみると鉄人28号を思い出し、初代新幹線をみるとエイトマンを思い出す未来を夢見る少年漫画の世代だ。 そして時は流れ、平成14年頃からの当時の総理大臣の一声で日本橋の上空に首都高は景観を損ねるとのことで平成18年の頃に民間も街づくりの一環として「日本橋川に空を取り戻す会」を設立。実際はそれ以前から扇千景国土交通大臣の「首都高の高架に覆われた日本橋の景観を一新する」とのことで東京都心における首都高速道路のあり方委員会が設立されていたようだ。川の上空に首都高速を造った時代もすごいが、それを地下に潜らせることを考える時代もすごい。 話は三隅・長門道路に戻るが現状としてルート上の伐採や付帯工事が始まっていると聞くが生活エリアからはさっぱり見えない。いつの間にか出来てしまいそうな・・・ただ完成まで元気でいることを当面の目標にしたい。とりあえず開通記念のウォーキング(片道約10Kmの往復)をしたいと思っている。

ホウネンエビが出てきた

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 先日の投稿で、「探し回ったが見つからなかった生き物」が実はホウネンエビなのだが今回はたくさん見つかった。 撮影がうまくできなくてくっきりと見えないが、半透明な生き物で自動でピントが合わない。(老眼で被写体がはっきり見えていないのが本当の原因だ。) ホウネンエビは毎年この時期に探しては撮影しているのだがもう一つの目的のカブトエビがなかなか見つからない。こいつも田んぼに水が張られると出てくる生き物なのだが少なくなった?せいかほぼ見つからない。 けっこう探し回ったが、結局見つかったのはホウネンエビだけで、カブトエビの姿は見当たらなかった。 6月中にもう一度探索してみようとは思っている。晴れた日より曇った日のほうが探しやすいのでチャンスはあるはず。