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赤間関街道を今一度~三見市・床並へ

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 前回の旧萩市内に続いて大照院辺りから街道を進んでいく。 地図は現在の地理院地図をモノクロに変更し少し落書きを加えたもの。 桜江辺りから橋本川沿いに進むと「道祖神社」がある。この小さな神社は昭和61年の県道拡幅の際に橋本川側に数メートル移転されたもので今はコンクリート造りになっている。そこからJR山陰本線を跨ぎ面影山に沿って進むと今の国道191号線に出会う。しばらく街道は玉江川に沿うが奥玉江を過ぎたあたりから街道筋は消えてしまう。今もってはっきりとしないが消え去った山道が中山集落へと続いていたと思われる。この消え去った街道筋に玉江坂御駕籠建場(おかごたてば)があったとされる。今は通行不可であろう。 そして街道は今の国道筋に戻り、街道杉のようなヒマラヤスギ?を目印に右へと入り三見市に向かう。(写真1)途中右手に観音堂があります。(写真2) 三見市(さんみ いち)は旧宿駅で人や馬を取り次ぎ宿や食糧を提供していた街道の拠点で、今でも街道沿いに軒を連ねる家々が立ち並んでいます。(写真3)(写真4) 市の家並みを過ごして山道を進むと床並の一里塚が建っています。(写真5)その目前に三見橋(眼鏡橋)が跨っています。(写真6)そして床並集落(写真7)へと進みます。 その後はまたまた国道に出てすぐに鎖峠(鎖板峠)を越して三隅村へと入っていきます。(写真8) 写真1 写真2 写真3 写真4 写真5 写真6 写真7 写真8

赤間関街道を今一度~萩市内

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 近世、萩城下の唐樋札場より赤間関(下関)へとつながる街道がありました。 萩城跡 萩城より御成道を東へ田町商店街を抜けると札場(唐樋の札場)があります。ここが萩往還や赤間関街道のスタート地点になります。 唐樋の札場 唐樋の札場 唐樋の札場を南下し金谷神社(天満宮)を左に過ごし現在の萩駅前の濁淵を左に行くと萩往還や赤間関街道中道筋、右へ曲がると赤間関街道北道筋(北浦道筋共)と進みます。 金谷天満宮 萩駅舎から観た萩駅前 濁淵には一里塚があったとされるが現在はその形跡もなく、さらに西に向かうと萩藩主毛利家の菩提寺大照院の前を通る。さらに旧道を進むと桜江の渡し場跡があったとされるがこれもその形跡はない。この渡し場は河添と桜江を結ぶ渡し場で大照院の参詣に使われることが多かったと記録されている様子。そしてさらに進むと旧山田村へと入っていく。 今回の記録はここまでにする。 [後記] 赤間関街道のルートは三つあり、まず内陸部の明木(萩市)・秋吉(美祢市秋芳町)を経て吉田(下関市)で山陽道と合流する「中道筋」(約75㎞)。続いて、正明市・俵山(長門市)を経て小月(下関市)で山陽道と合流する「北道筋」(約80㎞)。そして正明市・粟野(下関市豊北町)・川棚(下関市豊浦町)を経る「北浦道筋」(約96㎞)です。 わが町、三隅は北道筋と北浦道筋の共通部分の街道筋で一里塚も3箇所ありました。曲坂一里塚(追分の上)、中小野一里塚、浅田一里塚です。

高潮の日~小島

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 高潮注意報と言われても内陸に住む人々には聞き逃しそうな予報だが、沿岸部に暮らす方々には聞き逃せない予報だと思う。今回は三隅の小島漁港の風景。 道路に乗り上げそうだ。 旧漁協の前 雨水ではありません。 市場前はこれから・・・ 側溝から海水が湧き出てきた。 台風でも接近して満潮を迎えてしまうと最悪の事態になりかねない状態だ。 フィッシャリーナ小島に停泊中のクルーザーも普段より位置が高い。 猛暑日が続いている中での撮影なので道路の水たまりはすべて海水だ。地元の方々は日常茶飯事のことのようで「そこに車を停めると潮が上がってくるよ!」と注意をされた。 自分としては過去に何度か経験した風景だが初めて見る方は衝撃の風景ではあるまいか? 住んでみないとわからないことがたくさんある、という一つの例だ。

入道雲のある風景

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 相変わらずローカルなことだが長門市三隅地区では夕立が来そうで来ない猛暑日が続いている。山の日の大雨で田圃が生き生きしてきたと思ったらまた干乾びた状態に戻ってきた。 そんな猛暑のなか、シェービングクリームのような入道雲が三隅を囲む山々から覗きだした。 鉄割山系、沢江の西山 岳ノ山 小波橋から天井山(左)と足河内山(右) 小波橋から権現山 権現山拡大 扇山 入道雲を見るたびに昭和の時代にあった剃刀?のCMを思い出す。覚えている方もいるはずだが入道雲を手でつかんでシェービングクリームにして髭をそるCMだ。記憶を確かめるためもう一度見てみたいものだ。(Youtubeで探してはみたが見つからなかった。またまた記憶ミスか?)

上手く撮れなかった野鳥たち

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 年齢を重ね老眼や乱視が進んだおかげでファインダーやモニター画面が見えておらず、せっかく見つけた野鳥たちのシャッターチャンスを生かせなかった写真を何枚か残そうと思う。 最近見かけなくなって久々に姿を拝めた。 背景をぼかすつもりはなかった。 せめてこっちを向いてほしかった この時期に見れたのは珍しい? 家の前で見つけたのは初めてで興奮してしまった結果の一枚 家の前にシカがやってきたか、と思わせるように「ぴょー、ぴょー」と甲高く鳴いていた。すぐさまカメラを手に飛び出して撮った一枚。でかいキツツキだ。 暗い写真だが何とかヤマガラだと判定できる一枚。 発見して少しの時間留まっていてくれた野鳥たちのみ撮影できたわけだがほとんどの野鳥はすぐに逃げてしまう。とてもじゃないが素人に図鑑のような写真は撮れない。 今回は2025年4月下旬から8月中旬までの自分にとっては貴重な駄作写真。

只の浜と境川

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 防長風土注進案によると「多田ノ浜」の旧道わきにエノキの木が植えてありそこに一里塚があったとされる。もちろん赤間関街道北浦道筋の一里塚だ。 この「多田ノ浜」とは境川の旧名らしく、ひょっとして現在の「只の浜」はこれが変化して名前が変わったものか。 ということでまずは令和7年の「只の浜」の様子。 正面の青海島を臨む 東側西深川方 西側境川方 境川地区に移動する。 境川バス停より山陰本線 境川荒神社入口 境川荒神社参道入口に鎮座する庚申塚。 うろついてはみたが旧道のエノキがどこに在るのか分からず、一里塚の跡はやはり不明で地元の方に聞くしかないようだ。 境川を流れる川の名前は「十楽川」という。勝手に川名を境川と思っていたが調べてみると違っていた。地名辞典による小名一覧で探しても確かに境川という地名は見当たらない。見当たるのは「十楽」や「多田」という小名だ。そしてその近所に「茶屋」という小名を見つけた。これは峠の茶屋か?とまたまた勝手な想像をする。とするとその近くに一里塚があっても不思議はない。 地名には先祖の生活感が表れており今もそれが息づいていることがよくある。知れば知るほど面白い。ということで小名だけの地図が欲しい。