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薫風の頃~その1

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 立夏を迎えるころの風景。 久原地区より権現山を臨む 久原山北峰より 上東方より岳ノ山を臨む 上東方の山 山の彩りがシイやクヌギなどの雑木のエリアとスギ、ヒノキの植林エリアに見事に分かれて今の季節にしか見れないこれらの風景は人々の生活や生業と相絡まって素敵な風景となる。不思議なことに歳を重ねるごとに味わい深く印象に残っていく。何でもない日常の風景が切り取り方によって見え方が違ってくるのも面白い。

三隅の小郡三隅線と野波瀬港線から路線バスが消えた

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 今年の4月1日からバス路線の一部変更に伴い、防長バスが県道の野波瀬港線と小郡三隅線から姿を消した。 今回のように全廃ではなく一部変更で路線が縮小される場合の地元住民はその反応が微妙に違っていて、以前と変わらないエリアの住民は興味がないのか話題にも上らない。無くなってしまうエリアの住民は話題にはするが元々の利用者が少なかったため?何も変わらず廃止を迎えた。 全路線廃止されたら反対運動でも起こるのかもしれないが今回のようなケースはその日があっさりと過ぎてしまった。自治会の回覧に回っただけで最終日は何もなく終わった。 小波橋を渡った防長バス 向山バス停停車中 向山バス停通過中 ちょっと廃止の形態が似ている(歴史は全く違うが)のが1997年3月の大嶺線の廃止で、当時美祢線の支線となっていた南大嶺ー大嶺間が廃止されたときの最終日には結構な騒ぎで普段人影のない麦川(大嶺駅辺り)に大勢の鉄道ファン?が集まった。この鉄道とバスの差は何なのだろうか? 今回のような一部廃止はいつの間にか人々の記憶から消え去っていき、歴史にも残らなくなるような気がして一抹の不安が過る。バス停標識だけは未だ残されている。

美祢線の歴史と明倫小学校(その3)

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 今回は美祢線だけの話となるが、厚狭~重安間の石灰石輸送の話だ。 今回のキーワードは「異様に長い線路有効長」と「二つの信号場」だ。 戦後間もない1946年(昭和21年)に吉則駅(現在の美祢駅)の東側にある石灰石の鉱山にご存じ宇部興産が進出し、翌年に宇部興産伊佐工場と美祢線吉則駅を結ぶ専用線を敷設した。 鉄道の一番のメリットは一度に大量の物資を運べることにあるが、長い貨物列車が単線区間を行き交うには上下の出発信号機に支障しない長い線路有効長が必要である。ということでこの長い貨物列車が行き交っていた厚保駅や四郎ヶ原駅をプラットホームから眺めてみる。 厚保駅-1 厚保駅-2 四郎ヶ原駅-1 四郎ヶ原駅-2 南大嶺駅-1 南大嶺駅-2 厚保駅、四郎ヶ原駅、南大嶺駅とホームから出発信号機を眺めてみるとその有効長がかなり長いことが伺える。大嶺からの石炭、美祢や重安からの石灰石を積んだ長い編成の貨物列車を留めるに充分なホームトラックが必要なわけだ。 (ちなみに美祢線は単線です) ここでどんな貨物列車が走っていたかというと手持ちの写真が無かったので厚保駅に展示してあった写真で賄う。厚保駅を守っていらっしゃる方々に感謝。 厚保駅の展示写真-1 厚保駅の展示写真-2 次に「2つの信号場」の事だが美祢線には厚狭~湯ノ峠間に「 鴨ノ庄信号場 」、湯ノ峠~厚保間に「 松ヶ瀬信号場 (平成9年に廃止)」という列車を離合させるためだけの目的でつくられた施設があった。(鴨ノ庄信号場は現存します。)最盛期にはそれほど過密に運搬されるほど石灰石輸送が必要だったわけで残念ながら今ではその風景は見れない。 そして本題の「真白い石灰石」の流れのことを少しだけ書いておくことにする。 簡単な路線図で説明すると二つの流れがあり、「①宇部興産伊佐セメント工場からの輸送」及び「②太平洋セメント重安工場からの輸送」となる。 ①は宇部興産伊佐セメント工場から専用線で美祢駅の貨物ヤードに運び、そこから美祢線を介して山口線で山陰本線の岡見駅経由で三隅火力発電所へ。 ②は重安駅の東側の石灰石鉱山から国道316号線を跨いで重安駅貨物線のホッパーへベルトコンベアで運び厚狭駅、宇部駅を介して宇部岬駅へ。(セントラル硝子専用線へ) 主旨から外れてきたのでこのあたりで今回は終わります。様々な方が美祢線の歴史をネットに揚げられてい...

美祢線の歴史と明倫小学校(その2)

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 前回、「伊佐駅には真黒い石炭を積んだ貨車が幾台も連なっていました。」という明治・大正期の明倫小学校の思い出文集の修学旅行の一文をピックアップしたが、この伊佐駅というのは後の「南大嶺駅」で、「真黒い石炭」というのは 大嶺炭田で採掘された良質の「無煙炭」 に外ならない。 ここで美祢線の歴史の発端をひも解くと・・・ 明治37年、日露戦争にて 軍艦の燃料のため 徳山海軍練炭製造所へ大嶺炭田で採掘される良質の石炭(※無煙炭)を大量に運搬するため 大嶺~厚狭間に鉄道を敷く必要 があった。当時はすでに下関まで山陽鉄道が延伸されていたため、厚狭から大嶺までの19.6Kmを大至急鉄道敷設するように海軍より要請された、というのが美祢線の始まりだ。 (※蒸気機関の軍艦から黒煙が出ると敵艦に見つかりやすくなるので無煙炭である必要があった。) 大まかな歴史を路線図で説明 つまり美祢線は厚狭駅から大嶺駅間でスタートしており、現在の美祢駅から重安駅間はその少し後、そして於福駅が出来て於福駅・長門市駅(当時は正明市駅)間はさらに後(大正13年3月)にできている。ちなみに長門三隅駅まで美祢線が延伸されたのは大正13年11月3日だ。当時はまだ山陰本線がこのエリアまで来ていなかったため、長門三隅駅から宇田郷駅までは美祢線の延伸で伸びて行った。そして幡生方は正明市駅から阿川駅までも延伸されていった。 ということで南大嶺駅はその後今の美祢線から大嶺線への分岐駅となっていったわけだがその大嶺線は1997年に廃線となった。 美祢線大嶺支線の乗り場だったホーム跡地 ところで大正時代にはどんな機関車で石炭を運んでいたか、というと想像でしかないが下の写真のような機関車であろうと思っている。 この写真は昭和14年の頃の正明市機関区の転車台と扇形庫が写ったもので、大正期から使用されていた機関車らしい。 (お父様が長門機関区に勤務されていた方から見せていただいた写真) 大正時代に履き替え草履と握り弁当を腰にさげて重安駅まで歩いていき、初めて見た汽車がこれだった?かと思うと色々の苦労や喜びを想像してしまう。(明倫尋常小学校高等科の修学旅行) 次回は「重安駅の真白い石灰石」のことをもう少し書き残そうと思っている。 (その3)へ続く

美祢線の歴史と明倫小学校(その1)

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 先月の事だが親しくしていただいている高齢の方から「開校百周年に向かって  明倫小学校の思い出  (明治・大正)」という小冊子を見せていただいた。 百周年事業の一環として「明倫小学校百年史」が昭和59年9月に発行されたことに鑑み発行された冊子で思い出の作文集として読んでみると、多くの興味深い記録が書き込まれていることが分かってきた。 よく出てくるキーワードに「大水が出て校舎が流された」、「遠足で久原山に登った」、そして一番印象に残った 「高等科一年、二年の時に修学旅行で重安まで二十五キロの道を歩いていき、そこから初めて汽車を見、そして汽車に乗った」 という記録だ。 修学旅行の行先は下関市だったり山口市だったりしたようだ。 当時の美祢線(美禰軽便鉄道)は厚狭駅から重安駅までしか開通していなかった時代。於福駅は大正9年10月、渋木駅から正明市駅までは大正13年3月に開通している。 Googleマップを利用 また、別の方の思い出には 「重安駅では真白い石灰石、次の伊佐駅には真黒い石炭を積んだ貨車が幾台も連なっていました。」 という文章がある。 重安駅-1 重安駅-2 背景の山の切れ目辺りから石灰石を運ぶコンベアーが厚狭川を跨いで駅の線路上のホッパーまで在ったように記憶している。この山の向こう側は広大な石灰の採掘場の山々がある。 ここで「重安駅の次が伊佐駅」という箇所に注目すると伊佐駅(美祢軽便鉄道の頃)というのは現在の南大嶺駅のことで、大正5年以降の修学旅行ということになる。(「 乗ろうよ美祢線・美祢線の歴史 」より) 重安駅~伊佐駅間の「上領停留所(大正9年に廃駅)」、「吉則停留所(大正9年に駅に格上げされた現・美祢駅)」が抜けているのは修学旅行の列車が停留所には停まらなかったのであろうか?それとも記憶違いか。 以下、「伊佐駅には真黒い石炭を積んだ貨車が幾台も連なっていました。」との美祢線の歴史の中枢となる伊佐駅と大嶺線のことは(その2)へ続く。 (後記)明治、大正時代の明倫小学校は旧三隅町公民館(後の中央保育所)の辺りにコの字型の校舎が在ったようで幾度も三隅川の堤防の決壊で校舎が流されていたと記録にある。昭和の時代に河川改修を行ったときに「以治水郷土安泰」の石碑が豊栄園に置かれた。稲田町政の頃だった。

豊原神社で桜を撮る

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 朝間の風が立たないうちの豊原神社の桜(ソメイヨシノ)の様子を撮りたくて、やっと行けたは良いがお天気が優れない。今日行かないと散ってしまうとの思いから仕方なく曇天で決行。 枝が大きく揺れ、花びらが風に舞っている時を避けて少し待つ。じっとしていると気温が低いので寒くなってきた。スギ花粉かヒノキ花粉のせいで眼もかゆくなってきた。最悪の状態になる前の撮って出しの写真を残す。 We b Log に残しておくと結構役に立つことがある。いつ?の事だったかすぐに忘れてしまうし、書き残したことも再読すると語彙力のないことにあきれてしまう。少しづつでも進歩していけることを願って稚拙な文章を残していく。老成した古人に追いつけるように自分も老いていきたい。

山の中の春

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 4月になりソメイヨシノは開花したものの肌寒い日が続いている。3月には夏日のような暑い日があったことが嘘のように感じられる。 そんな北風が吹く曇り日に手袋の中の悴んだ手をニギニギしながら山歩きをする。 スミレ 山ツバキ 山椒 タラの芽 フデリンドウ コバノミツバツツジ-1 コバノミツバツツジ-2 コバノミツバツツジ-3 今年も咲いてくれるのだろうか、という心配を一掃するように芽が出て開花しているコバノミツバツツジ。 ヒノキの森の中に山道に沿ってぽつりぽつりと見つかるピンクの花はとっても可憐でつつましく、早春?の山歩きの醍醐味を満喫できる。 山の中はこれから春を迎える。