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大晦日の三隅八幡宮

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 昨年に続き、大晦日に八幡様を訪れた。 2021年12月31日撮影 2021年12月31日撮影 2021年12月31日撮影 2021年12月31日撮影 自分勝手な想いだが、人のいない静かな神社を好んでいる。そして遠目に見る初詣の賑やかな神社も好きだ。 [独り言]・・・年の初めは何をおいても氏神様にお参りし「挨拶」をする。さらに大晦日にも無事の報告に参詣する。これで終われば良いのだが苦しい時は願い事を言ってしまう。「悪霊退散!」 来年も元気で「町歩き」や「山歩き」が出来ますように!

仙崎漁港から見る天井山系の稜線

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 山の稜線は遠くから見たほうが美しく、そして地形が分かりやすい。 2020年12月10日撮影 2020年12月10日撮影 天井山系の山々を黄色の文字で示したが稜線に沿って明るくなっているので少し読みにくいかもしれない。 天井山頂は旧秋芳町、旧三隅町、旧長門市の3市町の境界となっていた。つまり現在の美祢市と長門市の境界を担う稜線なわけだ。 そしてこの稜線に仕切られて水は山陰側と山陽側に流れ出る(分水嶺)。山陰側には三隅川の支流である辻並川や大竹川、又は真木川(大谷本浴)そして山陽側には厚東川へと流れ行く。 つまり古くは長門の国を二分するかのように仕切られた稜線となっている。

令和の川浚え

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 舟戸(船戸)の説明板に「洪水で川が浅くなるので、慶応二年まではたびたび川浚えを行った。」と記述がある。これは年貢米の運搬のためなのだが、令和となった今も「川浚え」は続いている。 2021年12月21日撮影 2021年12月21日撮影 2021年12月21日撮影 2021年12月21日撮影 令和の川浚えは舟戸ではなく、少し上流の東関渕から小波橋、久原橋付近、そして市中橋辺りから土手近辺と広域に亘っている。 2021年12月01日撮影 2021年12月01日撮影 江戸時代までの川浚えは舟の行き交いのためのようだが、現代の川浚えは水害を抑えるための河川整備に依るものだ。 三隅庄から三隅村、そして三隅町へと変遷した中で、幾度もの三隅川の洪水を経験してきたわけだが昭和30年代以降の河川整備が始まってからは甚大な水害は被っていないように思う。 さらにこの土砂の堆積で山から運ばれた栄養分が海まで届かず、漁業にも影響を及ぼしているような気がしてならない。 それともう一つは「見栄え」、つまり風景のことだが、土砂が堆積し、そこへ数々の雑木が生え、成長した樹木となってしまい川の見栄えや見透しが悪くなっている。一言で言うと汚いのだ。きれいにするとゴミの不法投棄も少しは減ると思う。

同時に出発する列車

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 長門市駅を山陰本線と美祢線が同時に出発する光景。 山陰本線下り 967 D (9:55発小串行)と美祢線上り 708 D (9:55発厚狭行き)だ。 (写真はちょうど1年前の撮影です。) 2020年12月22日撮影 2020年12月22日撮影 2020年12月22日撮影 2020年12月22日撮影 長門市駅の1番線と3番線から同時に発車して最初の分岐器(ポイント)では寄り添い、草添山に向って左右に分かれていく。そして両者ともに深川川に架かる鉄橋をそれぞれ渡って行く。とっても素敵に思える風景なのだが運転手さんはどんな思いで同時に出発されているのであろうか。 何時ぞやも書き込んだが私は中学生の頃よりこの場所の風景が大好きだった。下関に行くのに山陰本線で行くか、美祢線で行くか計画するのが楽しくって時刻表をめくっては妄想にふけっていた。(運賃は同じだったと思う。)辺りの風景は変わってしまったがデパートまるみのビルが当時のまま残っている。とってもシンボリックな建物で昭和の長門市を代表する建物となっていた。(今となっては数々の問題が発生しているビルであろうが風景としては実に印象的だ。) 3・4番線の離れホームにあった立ち食いうどんを食べてから乗るか、それとも駅弁を買って乗るか、又は下関の立ち食いうどんまで我慢するかなどどうでもよいことを真剣に計画していた記憶もある。車酔いの酷かった自分は列車の旅がこよなく好きでなぜ列車は酔わなかったのか今思うと不思議でならない。トンネル内の煤煙も一般的に言うほど嫌いではなかった。そんなことを考えながら昨年末に横断陸橋を歩いていた。

冬の長門市駅前通り

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 その昔は「長門市駅前」や「正明市駅前」で通用したが今は「長門市駅 北口 」と言わなければならない。 その駅北口の駅前通りが今の時季ちょっと素敵だ。 2021年12月04日撮影 2021年12月04日撮影 2021年12月04日撮影 このように人影こそないが風景として素敵だと思う。 2021年12月04日撮影 駅前に人影が無いのはちょっと寂しいが昔ながらの風景だ。 2021年01月08日撮影 2021年01月08日撮影 人影が無いと書いては見たが実は車はひっきりなしに行き交っている。 2020年12月22日撮影 その一因となっているのがこの「ボートレースチケットショップながと」だと思う。開催日だけかもしれないが駅前通りの車の流れを変えたと思われるほどひっきりなしに出入りしている。 そしてもう一因がディスカウントドラッグストアコスモスの出現だ。元々は長門プラザが在った地に建ったわけだが放置された空き地の状態が長すぎたせいかしばらくは交通量も少なかったように思う。 駅南開発が進んだ昭和の終りから北口が寂しくなっていった感があるが元々駅の南は田畑しかなかった。長門市の商業を支えてきた駅の北側は今後どのように変わっていくのか楽しみではあるが個人的にはその境界の「駅」に頑張ってほしいと思っている。この街は鉄道で栄えた街だから。

「地蔵のはな」から

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 上東方にある部落の墓地がある場所を「 地蔵のはな 」と云うらしい。 この「はな」が「鼻」なのか「端」なのかがはっきりとしない。地形で見ても「鼻」らしき恰好はしていないので「端」なのかもしれない。「端」の言い方(俚言?)に「はな」といわれることがある。地形で言うとこれに近い。 2021年12月11日撮影 ここに上がると三隅川の河口や琴橋、そして開作地区が良く見える。 少しズームすると下の写真のように見える。過去には琴橋の向こう側にゴルフの打ちっぱなし(大隅ゴルフガーデン)のネットが見えていたが今は太陽光発電のパネルが敷かれていて面影はない。 2021年12月11日撮影 南側に目を遣ると豊原・平野の背景に鉄割山が聳える。 2021年12月11日撮影 下は「地蔵のはな」の六地蔵さま。 2021年12月11日撮影 365日この風景を見ておられるわけだがたまにはお墓参りの人々も見たいであろう。しかしながらご高齢の方にとってここのお墓参りはきつすぎるかもしれない。と言うことで私のようなイレギュラーな訪問者も良いのかもしれない。

さわやかハットの「おいわけりんご」さん

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 りんご追分ならぬ「おいわけりんご」さんのいる風景。 2021年12月11日撮影 2021年12月11日撮影 さわやかハット(またの名を「ガーデンハットさわやかさん」)を被った おいわけりんご さんは茶髪で笑顔なれど寒そうで寂しそう。吹きさらしの無人販売は今の季節は営業的には厳しいと思うがこのアイデアはちょっと楽しい。「おいわけ市場」のおいわけとは「追分」集落のことで宗頭の萩方面と美東町方面に分かれる分岐点の内側に位置する。 旅人や荷物を背負った馬を馬子が左右に追い分けたことから説と「合い分かれ」が訛った説とあるようだが最初の説が正解のような気がする。 美空ひばりの「りんご追分」の歌詞を見ると「合い分かれ」のような気分になる。津軽の悲しい歌を知ってのことか? 萩方面には「七曲」あり「榎谷洞道」ありの鎖板峠への厳しい街道で、美東に向けても山中峠が待ち受ける。昔は厳しい追分の地だったと思う。 楽しゅうなれ、楽しゅうなれ、とりんごさんに言おう。

権現山と兎渡谷のこと

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 過去に何度も書き残したが改めて権現山と兎渡谷のことを記す。 ここで言う「 権現山 」とは兎渡谷(とどろく)の背となり、大平峠(おおひらだお)と大水峠(おおみずだお)に挟まれた標高560.41mの霊山のことだ。 桂木山から観た権現山 今から577年前のこと、元々谷口村(現・兎渡谷)に粗略な祠が在ったとされているが当時の大宮司に対して三夜つづけて「今の祠は人家に近すぎるので神威を汚す、裏山の高尾山(現・権現山)に祀れば末永くこの村を守護する」という御神託があったという。その結果谷口村の人々は権現山の頂近く?に祠を建てて権現社を奉遷した、とある。 (「三隅町の歴史と民俗」より) 権現山山頂 権現山三角点 権現山(高尾山)山頂には見る限りそのような形跡がない。ところが山頂近くの尾根より兎渡谷側の谷にさしかかる浴に下がると下の写真のような社殿跡?と思われる石組みが見つかる。 頂上近くの社跡-1 頂上近くの社跡-2 そしてその谷の突き当りには下のような「井戸の跡」が見つかった。 社跡の近くで見つけた井戸跡? 神事には清い水が必要でここで汲み上げていたに違いないと勝手に想像をめぐらす。 最初の写真を見て解かるように高尾山の頂から青海島や日本海が直下に見渡せることがわかる。権現山に祀られた神様は不浄のものを嫌われるため海を行き交う船に不浄の輩を見つけると神鳥(烏?)を飛ばして海上に舞い降ろし大時化を起し小舟を破壊した。 そこでそれを厄介に思う船頭が谷口村を訪れ、この辺りに霊威高い神様は祀っていないかと問いただし、高尾山の山頂に権現社が祀られていることを知ると当時の大宮司に申し出て神慮のほどを伺い遷座となったのが谷口村の向かいに位置する「和海山」の中腹だ。この地なら海を行き交う舟は見えないのでその後は海は和んだとある。 そして和海山の新宮にて神楽を奉納していると一匹の 霊兎 が俄かに現れ、谷を飛び下り対岸の谷口村を越えて高尾山(権現山)奥深くに消え去った。列席する者たちは深く霊験を感じて何時しか谷口村を「兎渡谷村」と言うようになった、と伝えられている。 (「三隅町の歴史と民俗」より) 下のアルバム写真は三隅八幡宮宮司さんのご厚意でお見せいただいた貴重な写真だ。 上の写真が高尾山(権現山)山頂近くの浴での神事の様子ではないか、と思われる。 そして下の写真が元亀三年(1572年)和海山

琴橋付近の風景

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 三隅川の最下流に架かる橋が「琴橋」だ。素敵な名前がついているのだが年配の方とお話するとたいてい「小島の橋」という名前になってしまう。本当は「小島に行くための橋」なのだが追及してはならない。 2021年12月07日撮影 2021年12月07日撮影 2021年12月07日撮影 この日の午前中はこの写真のように穏やかで気持ちの良い初冬の汽水域の風景が拝めた。そして気分よく帰ろうとしたら突如5羽の白鳥が現れた。たぶん舞い降りてきたと思うがふりむいた時には水面に居た。 2021年12月07日撮影 2021年12月07日撮影 よっぽど人慣れしているのかすぐ手前まで近づいてきた。多分エサをもらえると思ったに違いない。 2021年12月07日撮影 青海湖からやって来たコブハクチョウだと思う。 沢江の「清風」の下に溜まっていたコブハクチョウがエサを求めてこちらまでやって来ていたと想像する。 この日は夕方から暴風が吹き晒し、夜は雷雨となった。この御一行様は無事に帰れたであろうか?ちょっと心配だ。

三角点名「広田」

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 普通に道を歩いていて三角点を見つけることがある。身近な例で言うと三隅支所の近くにあるのだが、その三角点名を「 広田 」といい 標高4.37m の 三等三角点 だ。 2021年12月04日撮影 田の畔にポツンと埋められた三角点は少し寂しげだが辺りの風景は三隅の中心地でシンボルとしている建物や代表的な山が正面に聳える。 2021年12月04日撮影 2021年12月04日撮影 三隅支所(保健センター)の裏道を真直ぐに進み、きらり馬場を左手に過ごすと今の季節はすぐに見つかる。 この三等三角点の元となる相手の三角点はいったいどこの三角点か気になるところだが地形図で追っても分からない。 国土や地理のことを考えるきっかけとなっていることは確かだ。