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7月, 2017の投稿を表示しています

沢江のはし工場

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沢江の山陰本線沿いに昔からとっても気になる「はし工場」がある。 竹が大量に置いてあるので「はし=箸」のことだと思うが実際にその製造を見たことがないので一度 工場見学 をしてみたいと思っていた。 地元の方に聞けばすぐにわかるのだろうがいつか自分で行って突破口を築きたいと思っていて、2010年に行ったことがある。 2010年03月30日撮影-1 2010年03月30日撮影-2 結局どなたもいらっしゃらなかったのだが、写真だけは勝手に撮った。 失礼があったらごめんなさい。 いつか作り方を見てみたいと今でも思っている。 自分も竹でペーパーナイフやピンセットを作ったりしていて20年前に作った道具を今でも使っている。 もっと若い時は竹馬なんかを作ったが、とっても下手ですぐに壊れてしまった。 ちなみに材料たる「竹」は大工さんからいただいたものである。

夏の蓮田

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2007年の夏に殿村新開の蓮田の様子を写していた。 2007年08月21日撮影-1 蓮田の背景に三隅コンクリートやアルミネの煙突が写るように撮影した記憶がある。 殿村新開から山本開作方面に向いての1枚。こんな風景はもう見れないのかもしれない。 冬になると蓮の葉が無くなり風景が一変する。 2007年08月21日撮影-2 蓮の葉を観察。  2007年08月21日撮影-3 大隅ゴルフガーデンのネット枠が写っていた貴重な1枚。 ♪ 10年はひと昔 うーー暑い夏 ♪ お祭りはふた昔 うーーセミの声 井上陽水 「夏まつり」より ちょうど10年前の写真だが今、無いものが写っていると「昔」という言葉を使いそうになる。 2007年08月21日撮影-4 帰り道の水路で見つけたアオガエルの卵の抜け殻? すぐ下が水路なのでモリアオガエルか?いやシュレーゲルアオガエルだろうか。よくわからない。 近いうちに今の蓮田を撮影に行こうと思っている。

「みつる」と「かいづか」

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今現在50歳以上の長門市生まれの方ならほとんどの方が知っているはずの「みつる」と「かいづか」。 そうです、長門市を代表するツートップの おもちゃ屋さん です。 「みつる」は私の中では駄菓子屋さん的なおもちゃ屋で、めんこ(パッチンと言っていた)やビー玉、煙硝玉や2B弾を買うお店で小学生の時に母親の実家から歩いて行っていた。 「貝塚」は私の中ではプラモデル屋さんのイメージでとらえていた。お店に入ると一目散にプラモデルの箱が積んである場所を眺めていた。 2008年10月16日撮影 上の写真は9年前の「みつる」さんだが、子供の頃は木造だったような記憶だ。 「かいづか」さんはお店の建屋が無くなって今は駐車場に変わっていた。下の写真は4年前のものだが、お店は手前駐車スペースの門ッコに在った。 2013年06月29日撮影 2013年06月23日撮影 プラモデルの中でも特に好きだったのはサンダーバード2号で丸っこい機体がかっこよく、食器皿に水を入れてその中に付属のシールを浸して浮き上がった文字やロゴをピンセットでつまんで機体に貼る作業が一番好きだった。完成前の最後の作業だ。 シールの貼り方 最近はプラモデルを買っていないが5年前に、ウェーブにあった「トイフィールド」というおもちゃ屋で買った「元祖ナニワのたこ焼」というプラモデルにはこのタイプのシールが付いていた。たぶん今の製品でも仕上げのシールはこれだと思う。 訳アリで購入。 こんなにちゃちなプラモでも作ると楽しい。

長門市駅とその周辺

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まずは長門市駅の構内(線路)のことだが山陰本線の指定分岐駅だけあってとっても複雑な線路の構成で出来ている。 2008年02月04日撮影-1 右から保材線、0番線、1番線・・・9番線と並び、奥の方には転車台もあった。このレールの配置を幾何学的な目線で見ると、その造形美にびっくりする。もっと晴れた日に撮影したかったが、私が行く日は必ず雨だ。(傘をさして撮ったもの) ここから下は9年前の駅北口周辺の風景だ。 2008年05月07日撮影-1 2008年05月07日撮影-2  上の写真は、現在はドラッグストア「コスモス」が出来ている空き地。 ここはその昔、「長門ショッピングプラザ」という今のウェーブのような商業施設があった場所で、昭和50年3月にオープンしたことをはっきりと覚えている。というのが、ショッピングプラザのロゴマークを私の同級生が応募したものが採用されたからだ。 この時にほぼ同時に 山陽新幹線が開通 した、という時代だ。 思い出すとなんだか懐かしい。 2008年02月04日撮影-2 2008年02月04日撮影-3 最近北口にあまり行っていないので何の変化があるのか判らないが9年前の記録としてアップしておく。 高校生の時代以前は長門市駅は北口しか栄えておらず、南口は田畑ばかりで広々とした殺風景な街だったが、今は逆転して南口が賑わっている。ちなみに長門病院も北側の湊地区にあった。(長門総合病院ではなく長門病院だった。) 正明市(しょうみょういち)の少しだけ前の記録として書いてみたが、これをプロローグとしてこれからも少しづつ紹介していく。

喫茶店「茶話」のこと

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仙崎駅前通りに清水ビルがあり、その1階にその昔「茶話(SAWA)」という喫茶店があったのだ。学生時代だったように思うが、帰省した時にほんの数回行っただけの喫茶店だがとても印象深く記憶に残っている。 2年前、近くに行ったときにビルが残っていて、懐かしく思って写真を撮っていた。 2015年07月19日撮影-1 2015年07月19日撮影-2  「COFFEE & LANCHEON SAWA」と描かれたシャッターが残っていた。錆びていない頃のシャッターを見たかった。 「Luncheon」の「A」が「U」の間違いかと思ったりしたが、「Lancheon」という言葉(英語ではないのか?)もあるようだ。ワザとなのか? 2015年07月19日撮影-3 入り口扉にロゴのような文字があるがなんて書いてあるのかわからなかった。 当時のマッチのデザインが好きで今も大切に残している。 茶話のマッチ(表) 茶話のマッチ(裏) この喫茶店「茶話」にいらっしゃったおねーさん(ママさん?)が1970年に開催された「 日本万国博覧会 (大阪万博)」でコンパニオンをされていたと聞いたことがあり、万博に行けなかった私は当時のことを色々と聞きたかったのだが、私は人見知りが激しかったのでただ行くだけで何も聞けなかった。 (雑談)最近のテレビCMで、2回目に行く中華料理屋さんで「いつもの・・・」とおどおどしさを残して酢豚定食を注文する若い男性。BGMに「よ~~そこの若け~の」(最近知ったが竹原ピストル)というすばらしい組み合わせ。CM製作者のこの感性は素晴らしい。 1970年に開催された大阪万博は、アメリカ館の「月の石」が大人気でかなりの行列だったと親戚の叔母に聞いた。以前ここで書いた「万博ふろしき」をおみやげでくれた叔母だ。 ところでその当時に三隅や長門市から大阪の万博(吹田)に行くことを想像してみた。仮に小郡駅(現・新山口駅)や厚狭駅まで車で連れて行ってもらったとして、そこから山陽本線で特急に乗って行くとどのくらいの時間がかかるのか?(当時、山陽新幹線は無かったため、在来線で行くしかないわけだ。)全区間自家用車で行ったとしても、中国自動車道がまだ出来ていないのでほとんど一般道で行くしかないのだ。ましてやカーナビなどその言

松島から見る風景

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昨日の室生に続いて松島からの風景を記録しておく。 2017年07月23日撮影-1 松島から見た野波瀬漁港。 背景左側に岳の山が見える。  2017年07月23日撮影-2 松島から釣りデッキを眺める。 背景は小島山。  2017年07月23日撮影-3 松島先端から幸島を眺める。  2017年07月23日撮影-4 松島から二子岩、幸島を眺める。 幸島の背景は青海島。  2017年07月23日撮影-5  松島から三見の大崎方面を眺める。 いちばん遠くにうっすらと見えるのは、長門大井沖の大島か奈古の筒尾辺りだと思う。 2017年07月23日撮影-6 私が子供の頃は、「海に泳ぎに行くこと」=「サザエやニナを獲ってくること」だった。たまにトコブシや大きなニシ貝が獲れるととっても嬉しかった。 1970年代の松島の風景と比べてみると今と全く違っている。 1970年代初期?の松島-1 松が生えている岩(松島のシンボルだった)の向こうにかすかに漁船が写っている。 1970年代初期?の松島-2 今はこの岩も無くなってしまっている。  1975年頃の野波瀬 遠くに見える松島の先端の風景が今と全く違うことが分かる。 変わらないのは幸島の形だけだ。 昭和59年(1984年)7月に松島野営場が完成して今年で33年目となる。 私はこの頃県外に出ていたため、こんな施設が出来ようとしていたことすら知らなかったが、初めて知って野営場を見に来たのはそれから5年後だったと思う。その時に野営場よりも松島全体が変わっていることに驚いた。 まだ若かったせいか仕事のことで頭が一杯の時期で、町がどんどん変わってきていることにあまり気づかず真面に風景も見れていないような頃だったように思う。 こんなに美しい町なのに。

室生の道

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夏休みに入って最初の日曜日、子どもの頃を思い出して夕方に自転車を漕いで松島に行ってみた。暑さと体力のなさでけっこうなダメージがあった。 野波瀬の漁港から東へ向かい、 松島に行く途中 の室生の道を懐かしく思い、休憩がてらしばらく眺めてみた。 2017年07月23日撮影-1 1975年頃の室生の海岸  上の2枚の写真は松島へ向かう途中のほぼ同じ位置からの風景である。 下の写真は 約42年前の写真 だが、現在の埋め立て地から松島側は道路が拡幅されて防波壁が出来た程度で、室生の船着場(波止場)を含めて今とあまり変わらない。しみじみ眺めていると50年前にここでも泳いでいたことを思い出した。 2017年07月23日撮影-2 室生の道も路面をよく見ると海側の拡幅側がコンクリートになっていて色の違いで昔の道路幅(右の部分)が確認できる。(実際は42年前の写真を見てもわかるようにもう少しだけ広かったと思う。) 夏になると松島キャンプ場と海水浴の利用客で現在はけっこうな車の通行量があるが、昔は室生の方といりこの干しかばの方以外はこの道を通る人はあまりいなかったと思う。ただし夏休みだけは子供が自転車で来ていた。とっても寂しい道だった記憶がある。

宗頭の七曜舎

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宗頭の国道沿いにある「七曜舎」さんが昨年の暮れにお店をやめられたようだ。 昨年撮影した画像があったので2枚ほどアップ。 2016年03月31日撮影 2016年06月19日撮影 「七曜舎」は「しちようしゃ」と読むのか「ななようしゃ」なのか知らないままだった。 七曜暦 に使われる「太陽・月・水星・金星・火星・木星・土星」の七つの天体があるが、これらの天体の位置を表す暦(こよみ)から来ていると勝手に思っていた。地球から見た位置を表すために「地球」が入っていないのだ。 お店のネーミングがとってもお洒落で、このまま東京の神保町や高円寺辺りに据わっていても全く違和感がないと思う。 いつかはネーミングの由来が知りたかった。 20年以上前に小郡(新山口)からの帰りに食べたハムエッグ定食を思い出しながら写真を眺めている。

三隅の字名

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昨日に続いて三隅の字名(あざな)を地図に埋め込んでみた。 字名の図 字名の大部分は現在の自治会名と一致しているが、人家が無くなったりして残っていない字名もあるようだ。 興味深いのは 上東方にある「東関(とうかん)」 という字名だが、そこは三隅川の淵があり、子どもの頃から 東関淵 (とうかんぶち)と言っていた。結構深い淵で、川の向かい側には「舟戸」がある。これは以前紹介した「前大津代官所」の前の船着場であり、小名(こな)に当てはめると「蓼原」や「船戸」の向かいになる。 この「東関淵」で子供の頃に大きなフナを釣りによく来ていたが、とっても深くって川底が見えないのでちょっと神秘的な淵に思っていた。 今は土砂の堆積でとっても浅くなってしまって、「淵」と言えなくなってしまった。 他にも聞きなれない字名があるが少しずつ調べてみることにしている。 人家が無くなってしまったり、住民が減少したりで集落が無くなっていきそうで、字名や小名も消滅しそうである。 少しでも記録として残しておきたい。

三隅の住所区分

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三隅の住所は三隅上、三隅中、三隅下の3区分で構成されている。 その区分の方法がとても変則的だ。 下の地図は、平成12年(2000年)に発刊された 昭文社の地図 を引用したものだが、単純に区画割りした区分ではないことが分かる。 昭文社 2000年発行 山口県都市地図より-1 おおもとは、150年以上前(江戸末期?)に萩藩が整備した「風土注進案(ふどちゅうしんあん)」というものに遡るようだが、明治になって廃藩置県が制定され、たぶんその頃に三隅上村、三隅中村、三隅下村と行政区があったようだ。その上、中、下の区分だと思うがとってもややこしいのだ。 今、夏バテで文献を調べる意欲がないので今後少しづつ調べていきます。三隅のオーソリティーに聞けばすぐに判るのかもしれないが、間違いがあっても最初は自分で調べてみたいのである。 例えば、野波瀬浦から室生一帯がなぜ三隅下なのか、とか向山は「中」と「下」の両方の住所がある。 小島や生島、津雲、飯井が「中」であるのはどうしたことか? 地形的にはとっても治めやすい形をしていると思うが、不思議な区分だと思う。 昭文社 2000年発行 山口県都市地図より-2 次回、三隅の地図に、字名(あざな)を埋め込んでみようと思う。 大字(おおあざ)とか小字(こあざ)とか言っていた住所が少し前まで使用されていた。今も便宜上使われている地域もあるようだ。 ということで次回は「現代の三隅の字名(あざな)」を記録しておく。 それにしても梅雨明け早々暑い!!!!!

浦の酒店さん

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小島や野波瀬のように漁村だった町並みには、「 角打ち 」(かくうち)ができる酒店(酒屋)さんが在るイメージがあるし、実際に存在する。 2008年04月03日撮影 2017年05月19日撮影 小島 2015年01月05日撮影 2012年08月12日撮影 野波瀬 最近の都会の酒屋さんは「立ち飲み」スタイルが若い世代に好まれているようでけっこうな賑わいを見せているようだ。東京のいたるところで「角打ち」スタイルを採用したモダンな酒屋さんが増えているようだが田舎にはひっそりとした昔ながらの「角打ち酒店」が残っている。 お店の棚に置いてある缶詰(サンマのかば焼き)を開けてコップ酒(ワンカップ大関)を片手に一杯ひっかけて帰る、というイメージ。 漁師さんや職人さんだけの特権のようなお店だが、漁や仕事からの帰りに家路に就く前にお店に入ると、何も言わずとも いつもの酒と肴 が出されて ぐびっと 一杯飲んでから淡々とおかみさんと会話が始まる、というドラマのようなストーリーも勝手に想像する。 又は気のいい漁師さんの 濁声が外まで響いて 、おもてを通る仲間たちが「今日も〇ちゃんが来ちょる」と口がほころび、ちょっと入り口の引き戸を開けてみる、という風景。 その土地の方言が良く似合う風景である。 「角打ち」という言葉もあまり使ったことがないし語源もよく知らない。マス酒の角に口をつけて飲む?からとか、店の一角を貸し切って飲む様子からとか説があるようだが「将棋の角打ち」とも関係があるのかもしれない。 (注)今も角打ちをされているかどうかは未確認です。

三隅中学校舎と瑞風

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どうしても撮りたかった写真の1つに「三隅川橋梁を渡るトワイライトエクスプレス瑞風」の風景がある。 それを撮影するための場所を前日の夜から練っていたが、三隅中学校の校舎と権現山を背景に出来ないかと思い、久原橋か久原土手にしようと決めて行った。 撮影技術はないし、カメラもセンサーが壊れかけのものだったが何とか撮れた。 2017年07月17日撮影-1 タイトル「三隅中校舎と瑞風」  三隅中校舎の時計は11:15を指している。今後の参考にしようと思う。 2017年07月17日撮影-2 タイトル「瑞風と三隅中校舎」  トレセン(三隅公民館)入り口のイチョウの木が紅葉でまっ黄色になったときにもう一度撮影したいと思っているが、なかなか通過時期と天候が一致してくれないと思う。 それまでにカメラを買い替えようかな? 2017年07月17日撮影-3 展望デッキの方とファインダーを通して視線が合ったように思う。 タイトル「瑞風と権現山」 次回は時間が許せば、「浅田小学校と瑞風」とか「仙崎湾と瑞風」等々撮影したい場所がまだまだある。

レストランふじ

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そこに在るのが当たり前、のような「 レストランふじ 」が閉店された。 (たぶん「ふじ」が屋号だと思うが私にとっては「レストランふじ」) 「お食事処ふじ」(駐車場の看板) 「お食事・喫茶」(入り口の上看板) 「レスト&喫茶ふじ」(電光看板) 「レスト喫茶ふじ」(メニュー表紙) どれが正式な名称かわからないまま閉店されてしまった。 2007年09月20日撮影  10年前に久原山を背景に撮った写真。右隣に「指圧」と書かれているこの棟はその昔、焼き鳥屋さんがあったように思う。 2013年09月16日撮影 4年前の写真。 メニュー表紙 とにかく何を注文しても美味しい料理が出てくるのだから最高のレストランだった。特によく食べたのが「とんかつ定食」だ。「焼き飯」も「エビフライ定食」も「親子丼」も美味いし、もう食べられないのは困ったことだ。 (食べログではないのでここでやめる) このお店はとっても前から(40年以上前?)あったような記憶があるが 帰郷した時には何度かここで食べていたように思う。 2017年03月10日撮影  上の写真は、食事に立ち寄ったが「お休み中」だったときのもの。 その何日か後にもう一度来たら「閉店いたします・・・」に変わってしまっていた。 2017年03月24日撮影-1 2017年03月24日撮影-2 2017年03月24日撮影-3 2017年03月24日撮影-4 私は「レストランふじ」は名店だと思っている。私の友人も同様の思いだと閉店を嘆いていた。 このお店の 洋食 においては、昭和40年代のデパートのレストランで出されるような料理で、初めてとんかつ定食を食べた時に 下関大丸 デパート(シーモールができる前の大丸)のレストランを思い出した。デミグラスソース?の香りと味で子どもの頃の記憶がフラッシュバックしたのだ。このソースを元に次々とよみがえってくる記憶にびっくりしている。 2時間以上の列車の旅(長門三隅~下関)を終えようとする幡生駅を通過するころから突然と増えてくる線路の本数。海と山しかない風景からビルが立ち並ぶ一変した都会の風景。下関駅のホームの上の売店とホームから見えるマルハとクジラの看板。路面電車の通る道路、ニチイ