開作の道を辿る

昭和48年から51年にかけて、殿村新開から向開作の道を高校時代の自転車通学の帰り道に使っていた。遠回りの道だったが車が少なく、悠遊と走行できていたので土曜日等の帰り道に何度も通った記憶がある。

2017年07月12日撮影-1

2017年07月12日撮影-2

2017年07月12日撮影-3

2017年07月12日撮影-4

2017年07月12日撮影-5
当時の白潟湾は汚染されていたのか、沢江から山本開作にかけてとても臭っていた。その臭いにもめげずにここを通行していたのにはいろいろと理由があったのだ。

その理由の1つは先ほど触れたように車がほとんど通らないので自転車専用道路のように使えたことだ。今の長門病院の入り口辺りから小浜、沢江にかけて、当時は狭い道路(国道191号線)で、自転車で通行するのがけっこう危険な場所だった。そのために少し大回りして仙崎から白潟経由で小浜にたどり着いていた。そして山本開作の道に入っていたのだ。臭いがきつくても開作にたどり着くとホッとしていた。
仙崎経由で帰っていた時、さらに遠回りして「ばか盛」といううどん屋さんに寄って空腹を満たして帰っていた。このことは、ずーと前に書いた喫茶「茶話」と共にいつか書き残しておこうと思っている。

2つ目は、岸壁沿いに色々な魚が見れたこと。ボラ、ハゼ、セイゴ、フグ、クロダイ(チン)等々。今現在は汽水域までコイが泳いでいるが、当時はコイはほとんどいなかった。

3つ目は、景色のすばらしいところだ。四季折々に絶景が見られる。特に仙崎湾に沈んでいく夕日は素晴らしい。中学生の頃?だったか、和田の鼻から見た筏越しの夕焼けが忘れられない。今は筏(イカダ)が無くなっているので記憶の遺物となっている。

4つ目は、琴橋を渡るのが好きだったことだ。琴橋は三隅川の橋だが、海の上の架け橋のような感覚でとらえていた。汐の香りがするし橋はきれいだし、とっても気分が良かった。

追想が過ぎたが年寄の戯言に思えてきたのでここでやめる。


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