投稿

1月, 2019の投稿を表示しています

地形図から見る長門三隅駅

イメージ
大正13年に開業した長門三隅駅は、その設置位置を巡って村内でもめたことがあったようだ。 国土地理院 地形図を利用-1 候補地は下記の3か所だったらしい。 市(もし市に出来ていたらこんな感じか、というルートを点線で描いてみた) 豊原 沢江 当時の鉄道院の技官が現地調査した結果、市は当時は生島に向けて急こう配だったらしく駅の設置には不適当であるとされ、沢江は正明市に近すぎるため不適当とされ、結局豊原に決まったらしい。 但し今の駅がある場所は標高60m程度の小山の丘陵地にあって元々は豊原墓地があったとされた場所だ。その墓地を西側に移転することによって駅を構築していったらしい。なんとも大胆な計画を立てたものだ。 その小山の中を今は三隅バイパス(国道191号)が豊原トンネルとして貫いている。 現在の豊原墓地の辺り 広田エリアの美しいカーブより三隅川を渡る鉄橋と続き素晴らしい地形となって残されている。 国土地理院 地形図を利用-2 大正13年開業当時の長門三隅駅 2014年10月19日撮影-1 駅舎の向こう側に見える小山が豊原トンネルの通っている山だ。 そしてこの山は二条窪の 岳の山 へと続く。 2014年10月19日撮影-2 2014年10月19日撮影-3 以前(昭和の終わり頃まで)は3番線まで在り上下の待機列車が止まっていたりした。つまり3番線から萩方、長門市方の両方に出発出来ていた。 夜間に3番線に留置された列車で高校に通っていた方もいると思うが始発列車がいた時代もあったわけだ。 この続きはまたいつか書き込むことにしよう。

豊原の旅館のこと

イメージ
山陰本線長門三隅駅がある豊原には旅館があった。現在進行形でないことが少し寂しいが少し前まで1軒は営業されていた。 一軒は「 旅館長惣(河内旅館) 」でもう一軒は「 原川旅館 」と言います。 2007年05月21日撮影  12年前の旅館長惣さんの様子。 2019年01月19日撮影-1  今も残されている駐車場の案内看板。 2019年01月19日撮影-2 原川旅館があった辺り(左側)の風景。 大正13年三隅村発刊の冊子の広告頁より 上の資料は 大正13年11月3日に長門三隅駅の開業を記念して三隅村役場より発刊 された冊子の広告の抜き出しだ。 左側が 原川旅館 の前身のことで右側が 河内旅館 の前身だと思われる。 長惣事(ながそう・こと)「河内惣吉」と銘打ってあるが「長惣」のネーミングの由来が想像できそうだ。 本格的な旅館業としては長門三隅駅が開業した頃からなのか、以前から操業されていたかは不明だが、当時から駅が出来るということが町(又は村)の発展につながっていくことが想像できる。 同年の大正13年3月に正明市駅(現・長門市駅)が美祢線の延伸で先に営業開始している。活気づいたこの時代のことをもっと知りたい。 [参考] 明治30年代には豊原には旅館4軒、料理屋5軒があったらしい。 旅 館: 沖野屋、 原川屋 、久原屋、開新棲(樓?) 料理屋:  河内屋 、常岡、末山、 河内 、 原川屋 参考文献・・・豊原のあゆみ(歴史と伝承) より抜粋 これらの旅館、料理屋の「原川屋」や「河内屋」がその後の原川旅館及び河内旅館であるとするのが自然であろう。 これほどの繁栄の基になったのはやはり江戸時代からの年貢米の積み出しの拠点であったからに他ならないと思われる。(前大津宰判の代官所を豊原に置き、舟戸より萩に向けて積みだしていた。)

上地区ふるさと探訪

イメージ
旧宗頭小学校舎外壁に下のような看板?が掲示してある。 2019年01月26日撮影-1 説明を付加したもの 何が「コース」なのかよく理解できないが主要路線に「バス停の絵」が描かれているのでバスにて探訪するコースなのかもしれない。自転車で探訪するにはかなりきついコースだ。 ちなみに「上地区」というのは旧三隅町の上地区のことだ。 小さくて見づらいので説明を記入しておく。 ① 兎渡谷(とどろく)厳島神社 ② 山本家跡 ③ 宗頭大歳社 ④ 了性院(樅ノ木) ⑤ 中畑観音堂 ⑥ 宗頭小(学校)杉山分校 ⑦ 杉山採掘抗(銀山) ⑧ 黄幡社(滝坂黄幡社) ⑨ ? ⑩ ? ⑨は、たぶんパラボラアンテナが描かれているので日尾山のアンテナ群のことだと思う。 ⑩は炭焼き小屋のような絵が描かれているが一体何だろう?分からない。判明したら書き残すことにしよう。 そしてバス停は左から順に・・・ 兎渡谷、宗頭、中畑、一ノ瀬、下滝坂、上滝坂、落志畑 となる。 宗頭付近の国道沿いの風景 2019年01月26日撮影-2 我が町のことでも知らないことや行ったことがない場所があることに改めて気づく。時間が許せば少しづつ訪ね歩いてみようと思う。 しかし観光地でもない町を訪ね歩くと今の時代は不審者に間違われそうで辛い。怪しくない恰好をしなければならない。 「怪しくない恰好」ってどんな格好だろうか? そのような心配無しで歩けるから山歩きは良い。

レスト&喫茶 ふじ

イメージ
今は萩・三隅道路の三隅インターチェンジ付近と言った方が分かりやすいのだろうが国道191号線市バス停付近で営業されていた「ふじ」というレストランがあった。今は改築されて、というより「色が変わって」と言った方が分かりやすい建屋となった。 似たようなことを以前にも書き込んだことがあるが建物がリフレッシュされたのでもう一度書き残しておきたくなった。 2017年03月10日撮影 2017年03月24日撮影-1 2017年03月24日撮影-2 昨年の9月頃に下の写真のようになった。 2018年09月28日撮影 なんだかきれいになってサッパリした感じだ。 そして今はこんな感じになった。 2019年01月24日撮影 何にしろ、うどん屋さんと居酒屋?さんが出来てちょっと嬉しい。 しかし「ふじ」の定食や焼きめしが食べたい。 初めてふじで食事をしたのが40年ぐらい前の年の瀬のことだと思うが、新幹線小郡駅から車で帰ってくる途中で夕食に寄った時のことを思い出した。そうだ、こんなに長く営業されていて三隅町の歴史に残るようなお店だったのだ。そのような半世紀近く人生をかけたお店をたたまれるご夫婦の気持ちを偲びその形跡をここに残す。 [後記] 「レスト&喫茶 ふじ」に2017年の3月初頭に訪れた時には「しばらくお休みします。」と貼紙があり、その2週間後にもう一度訪れた時には「閉店のお知らせ」に変わっていた。とっても心配になったことを覚えている。それから2年が経とうとしている。

いこいの森~久原山 縦走コース

イメージ
「いこいの森」へ歩いて行き、そのまま尾根ルートを「久原山」まで縦走してみた。 2019年01月21日撮影-1 2019年01月21日撮影-2 2019年01月21日撮影-3 2019年01月21日撮影-4 2019年01月21日撮影-5 2019年01月21日撮影-6 2019年01月21日撮影-7 2019年01月21日撮影-8 2019年01月21日撮影-9 野鳥のための巣箱が途中たくさん設置してあった。作業された方々に「本当にお疲れさまでした」と言いたい。 2019年01月21日撮影-10  北風が強くとっても寒いのですぐに展望広場から夫婦岩に向かった。 昨年来た時よりいこいの森は整備されていてきれいな状態でした。 そして夫婦岩より西に向けて未整備の尾根ルートをひたすら歩く。 2019年01月21日撮影-11 2019年01月21日撮影-12 ほとんど整備されていないのだが尾根道は歩きやすい。 2019年01月21日撮影-13 地籍調査杭を目印に曲がって行く。 2019年01月21日撮影-14 そして向山からのトレッキングコースとの合流点(分岐点)に到着。 2019年01月21日撮影-15 AコースとCコースの分岐点(合流点)は分かりにくいのでCコースに向かっての下り口にテーピングをしてみた。この間を降りていくとCコースの尾根ルートにつながる。整備されていないので藪にしか見えない。 コース想定図 山歩きが好きな方ならこの高低差の少ないCコースが一番楽しいかもしれない。 この縦走コースは現在は未整備のため、慣れない方や軽装備では絶対に入ってはいけません。 [後記] 先日、三隅に在住の方に「いこいの森」のお話をしたら車で頂上まで行けるものと思い込んでいらっしゃった。さらに別の方は散歩気分で行ってみたら狭い山道に入っていき不安になったので引き返した、とおっしゃっていた。 両者の方は共に「いこいの森」という言葉のイメージで公園の散歩程度(例えば新宿御苑や神宮外苑の散策程度)に思われたようで実際の現地の「森」に面すると「山登り」又は「プチ登山」であることにびっくりされ

中原篷女史出生の地

イメージ
三隅町豊原の中原医院跡地の近くに「中原篷出生の地」という石柱が建植された場所がある。 2019年01月18日撮影-1 余計なものが置いてある(廃棄物状態)ためにせっかくの素晴らしい風景となるはずの門や石畳が死んでくる。(そちらに目が行ってしまう。) 2019年01月18日撮影-2 訪ねてこられた方ががっかりするのでは?と思いながらシャッターを切った。 場所としては宗善寺さんの裏手になる。 2019年01月18日撮影-3 [参考] 中原篷(なかはらとま):明治6年に三隅町豊原で生まれ、3歳の時に両親とともに群馬県前橋に移り、明治22年前橋英学校卒業後、医師を目指して上京し東京医学専門学校済生学舎に入学。卒業した翌年に「医術開業免状」を授与されると生まれ故郷の三隅町に帰り開業医となった。山口県下で最初の女医であった。 風景、又は景色というものは人それぞれ感じ方や受け取り方が違っていて当然だが寂れた風景も味わい深い風景となることがある。 しかしながらそこに在ってはならない物が一つあるだけで全体がだめになってしまうことが往々にしてある。 ・・・このようなことを感じてしまった。

舟戸から観る久原山

イメージ
「船戸」と書かれた書籍もあるようだがその「舟戸」のお地蔵さまから観る景色がとっても良い。 2019年01月19日撮影-1 土手の正面に久原山のきれいな稜線が青空に映り込む。この尾根を歩いたことを思い出しながら撮影する。 2019年01月19日撮影-2 お地蔵様自体が三隅川の土手にいらっしゃるので四方の景色がとっても良い。 2019年01月19日撮影-3 この舟戸に建っている説明板に「洪水で川が浅くなるので、慶応二年までは、たびたび 川淩え を行った。 」と書かれているがこの「 川淩え 」はなんと読めば良いのだろうか? 意味合いはそれとなくわかるが「 淩 」は「凌」ではないし誤記入とは思えない。とにかくこのような昔を凌ぐ説明の文章や文献の引用は読めない漢字(又は言葉)が多い。 昔から土砂の流出による川の管理に悩まされていたことは分かる。

養鰻場の記憶

イメージ
自分が小学生だったころ、三隅町にウナギの養殖場が出来たことを知って探しに行った記憶がある。歩いて行ったか自転車で行ったのかは覚えていないがとっても遠くに行ったような感覚だけが残っている。 当時、明倫小学校に通っていた自分が浅田小学校の校区に入ること自体が未知との遭遇であり、知らない町に入っていくイメージが強かった。 昭和40年4月 広報みすみ より この記事にある養鰻場が探しに行った場所のことかどうか分からないが記憶の中では開作地区のどこかだったようなイメージを持っていた。 2012年11月16日撮影-1  まったく場所が違っていた。 2012年11月16日撮影-2 2012年11月16日撮影-3 昭和37年頃に小島漁協が鰻の養殖場の建設計画を打ち出していたようで実際は昭和40年(1965年)頃に出来たようだ。 ということは自分が探しに行ったのはそれよりずーと後のことだ。本当に自分の記憶はあてにならないことを痛感する。 この養殖場は記憶の中ではたくさんの水車が回っていてもっと広々とした場所だったことになっている。どこかとオーバーラッピングしているのかもしれない。 ところで記事を読んでみると鰻だけでなく鰌(ドジョウ)にも手を出していたようだ。まったく知らなかったがそれにしても小島漁協は素晴らしい開拓者だ。真珠の養殖や海苔の養殖とフロンティア精神満載だ。

豊原の辻

イメージ
豊原の旧道(旧道と言っても良いのか?わからない)にとっても印象的で記憶に残っている四つ角がある。 広田から長門三隅駅へ向かう道と二条窪へ向かう道の交差点だ。 2019年01月19日撮影 12年前と比べてみる。 2007年05月21日撮影 2006年04月09日撮影 下の2枚は7年前の様子。 2012年11月11日撮影-1 2012年11月11日撮影-2 町の風景の中にお店があったり自動販売機や看板が有るだけでとっても印象深くなる。 その風景の中で暮らしている人々が写っていなくてもその時の気配を感じられる写真を残していきたいと思っている。しかしそれはとっても難しいことも感じている。