豊原の旅館のこと

山陰本線長門三隅駅がある豊原には旅館があった。現在進行形でないことが少し寂しいが少し前まで1軒は営業されていた。

一軒は「旅館長惣(河内旅館)」でもう一軒は「原川旅館」と言います。


2007年05月21日撮影
 12年前の旅館長惣さんの様子。



2019年01月19日撮影-1
 今も残されている駐車場の案内看板。



2019年01月19日撮影-2
原川旅館があった辺り(左側)の風景。



大正13年三隅村発刊の冊子の広告頁より
上の資料は大正13年11月3日に長門三隅駅の開業を記念して三隅村役場より発刊された冊子の広告の抜き出しだ。

左側が原川旅館の前身のことで右側が河内旅館の前身だと思われる。

長惣事(ながそう・こと)「河内惣吉」と銘打ってあるが「長惣」のネーミングの由来が想像できそうだ。

本格的な旅館業としては長門三隅駅が開業した頃からなのか、以前から操業されていたかは不明だが、当時から駅が出来るということが町(又は村)の発展につながっていくことが想像できる。
同年の大正13年3月に正明市駅(現・長門市駅)が美祢線の延伸で先に営業開始している。活気づいたこの時代のことをもっと知りたい。

[参考]
明治30年代には豊原には旅館4軒、料理屋5軒があったらしい。

  • 旅 館: 沖野屋、原川屋、久原屋、開新棲(樓?)
  • 料理屋: 河内屋、常岡、末山、河内原川屋

参考文献・・・豊原のあゆみ(歴史と伝承) より抜粋

これらの旅館、料理屋の「原川屋」や「河内屋」がその後の原川旅館及び河内旅館であるとするのが自然であろう。
これほどの繁栄の基になったのはやはり江戸時代からの年貢米の積み出しの拠点であったからに他ならないと思われる。(前大津宰判の代官所を豊原に置き、舟戸より萩に向けて積みだしていた。)

コメント

  1. 初めまして。
    2017年10月に通りかかったときには
    長惣旅館から宴会が仕出しの調理中なのか料理の匂いが流れてきて、
    こんどこのあたりに来たら泊まってみたくなりましたが、
    もう旅館としては営業されてないのですね。残念です。

    返信削除

コメントを投稿

このブログの人気の投稿

住友セメントのベルトコンベア

山口ニュージーランド村の記憶

アトラス長門の記憶