喫茶店「茶話」のこと

仙崎駅前通りに清水ビルがあり、その1階にその昔「茶話(SAWA)」という喫茶店があったのだ。学生時代だったように思うが、帰省した時にほんの数回行っただけの喫茶店だがとても印象深く記憶に残っている。

2年前、近くに行ったときにビルが残っていて、懐かしく思って写真を撮っていた。

2015年07月19日撮影-1

2015年07月19日撮影-2
 「COFFEE & LANCHEON SAWA」と描かれたシャッターが残っていた。錆びていない頃のシャッターを見たかった。
「Luncheon」の「A」が「U」の間違いかと思ったりしたが、「Lancheon」という言葉(英語ではないのか?)もあるようだ。ワザとなのか?


2015年07月19日撮影-3
入り口扉にロゴのような文字があるがなんて書いてあるのかわからなかった。


当時のマッチのデザインが好きで今も大切に残している。

茶話のマッチ(表)

茶話のマッチ(裏)
この喫茶店「茶話」にいらっしゃったおねーさん(ママさん?)が1970年に開催された「日本万国博覧会(大阪万博)」でコンパニオンをされていたと聞いたことがあり、万博に行けなかった私は当時のことを色々と聞きたかったのだが、私は人見知りが激しかったのでただ行くだけで何も聞けなかった。

(雑談)最近のテレビCMで、2回目に行く中華料理屋さんで「いつもの・・・」とおどおどしさを残して酢豚定食を注文する若い男性。BGMに「よ~~そこの若け~の」(最近知ったが竹原ピストル)というすばらしい組み合わせ。CM製作者のこの感性は素晴らしい。

1970年に開催された大阪万博は、アメリカ館の「月の石」が大人気でかなりの行列だったと親戚の叔母に聞いた。以前ここで書いた「万博ふろしき」をおみやげでくれた叔母だ。
ところでその当時に三隅や長門市から大阪の万博(吹田)に行くことを想像してみた。仮に小郡駅(現・新山口駅)や厚狭駅まで車で連れて行ってもらったとして、そこから山陽本線で特急に乗って行くとどのくらいの時間がかかるのか?(当時、山陽新幹線は無かったため、在来線で行くしかないわけだ。)全区間自家用車で行ったとしても、中国自動車道がまだ出来ていないのでほとんど一般道で行くしかないのだ。ましてやカーナビなどその言葉すらない時代だ。
今がいかに便利な世の中になっているかが改めてわかる。

その昔、在来線に「こだま号」というベージュ色の特急列車がいてそれと同じ色の列車を下関駅のホームで見た時にとても興奮した想い出がある。
これに乗れば大阪や東京のような大都市圏に行ける、という当時の田舎者の興奮だ。結局乗ったことがないままその特急は消え去っていった。
現代は都会と田舎の情報ギャップがテレビやインターネットのおかげでほとんど感じられないし、飛行機や新幹線、又は高速道路のインフラ整備等で時間的なギャップも少ない。たぶん私たちが経験した高度成長期の様々な興奮は、今は「へー」ぐらいの価値かもしれない。


コメント

このブログの人気の投稿

住友セメントのベルトコンベア

山口ニュージーランド村の記憶

アトラス長門の記憶