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三隅の祠とお地蔵様~野波瀬・室生

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 今回は過去に書き込んだ祠と一部重複してしまうが、野波瀬の荒神社と室生の大歳社。 まずは野波瀬の荒神社。 なぜにこんな野波瀬の室生側にあるかというと、この三叉路の山側の道はその昔は生島へと通じる(現在の三隅病院辺り)峠道があり、行商人が行き交っていた時代の名残で道祖神の役目も果たしてきた祠であるとのこと。 下の写真は久原山からいこいの森の夫婦岩へと通じる尾根道にて撮影した峠付近の様子だが、野波瀬方も生島方も道は廃道状態で孟宗竹とアオキで覆われて通行できる状態ではない。標高は125m付近。 かろうじて「道」があったであろう形跡が残っている程度だ。 Google Earthより 次は室生の大歳社。 室生には漁村でありながら昔は水田や畑があり豊作を願っての「大歳様」という成り立ちらしいが、創建ははっきりしない。またこの大歳様が室生から野波瀬に至る神輿担ぎのスタートの地となっていると聞く。 ちなみに漁村ならではの豊漁を願っての網代を廻る船祭りが野波瀬にはある。野波瀬の目前に浮かぶ幸島(こうじま)に三宇の祠が祀ってある。それぞれ宗像大明神、住吉大明神、海神大明神という。いつか機会があればお参りに行きたいと思っている。(野波瀬の資料には沖の明神、中の明神、地の明神と記されている) 野波瀬船祭り 野波瀬船祭り 放り神輿

三隅の祠とお地蔵様~東善寺

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 ちょっとしたきっかけで野波瀬の 地蔵山東善寺 にお参りに行けることになった。 以前に上げた 地蔵埼のお地蔵様 の御本体(地蔵崎のものは仮の地蔵尊らしい)が野波瀬の東善寺に祀ってあるとのことで、室生観音(三隅七観音の一つ)像も含めて拝ませていただいた。 室生の釈迦堂に在ったとされる釈迦如来像本尊?なのか、観世音菩薩なのかはっきりしないが「野波瀬に生きる(漁協創立30周年記念誌)」には御丈18cmと記されている。この御像が室生観音なのか、資料により記し方が様々で混乱する。 因みに室生観音は古より「三隅七観音」の一つとされている。 地蔵崎のお地蔵様(石仏)も実際に網にかかったと云い伝えられる地蔵尊がどれなのかはっきりしない。 自分の薄い知識と読解力不足で過去の資料が理解できない部分が多々あり、さらなる研鑽を要している。解明出来たら再度書き込むことにしよう。 【参考】 地蔵尊は、むかしこの浦(野波瀬浦)の漁師達の網に掛かり、引き上げられたものと伝えており、いまそのところを地藏崎といいならされ、その位置と伝えられる海底には二メートル平方ほどの面積に、一本の海藻も生え育たず、不思議なことといわれ、全く尊蔵の出現された奇瑞だろうといわれている。 また、如意輪観世音菩薩は元暦の頃(一一八四~一一八五)平氏が壇ノ浦に滅亡した後、源氏の大将(範頼か)が長門の国を領したとき、ある夜のこと霊夢に感じ、観音像を野波瀬と室生間に安置し、人々はこの山を「観音山」といった。しかし、この観音様はいかなることか、一夜、この地に飛んで来て、このことを浦人たちの枕辺に立って霊夢をもって告げ給うたので、驚いた人々はさっそく駆け登って見ると野天のもとに立たせ給うので、一同相談して寺内に一宇の御堂を建立し、これを安置したと伝えられている。(「三隅町の歴史と民俗」より)

萩駅の風景

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 以前にも少し触れたが萩駅の風景や佇まいがとっても素敵で、行く度に写真に収めている。 最近のものは天候に恵まれなかったため、今回は2021年の夏に訪れた時のもの。 いちいち説明はしないが、とにかく雰囲気が良い。人の賑わいがないのが寂しいが赤字路線の駅としてはずば抜けている。 ところで萩駅の立地のことだが、大正14年4月に長門三隅駅から美禰線の延伸として三見駅、玉江駅と同時に開業されて当時は終着駅として出来上がった。この鉄路は萩の城下町を貫かずに玉江より橋本川に沿うように否、赤間関街道に沿って蛇行し濁淵へと南下。あたかも金谷神社の外側へ廻りこむような位置だ。つまり城下町にいきなり入れない場所に造られている。地形的に言うともし三角州である城下町を貫くと橋本川と松本川の両方に鉄橋の架設が必要になるが、廻りこむと阿武川を渡る一カ所の鉄橋で済む。さらに地盤の緩い三角州の中に鉄道を敷いた場合は様々な強化施設が必要となる等、色々と当時の状況や地形をふまえて想像するとなぜこの位置に駅が出来たのかが見えてくるような気がする。

夏の水路にて

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 稲がグングン育つ中、水路沿いの道を散策。 アメンボがたくさんいたのでしばらく眺めていた。 動き回っているときは気づかなかったが撮影してみるとオスがメスに乗っかっている。(子を背負っているわけではありません。) 久々にこのようなアメンボを見た。産卵するまでこのままだったりするようだ。 横の水路にはドジョウが息をひそめてジッとしている。 これしか撮影できなかったが実際の水路にはハヤやコブナ、メダカ紛いの小魚が結構見当たる。動きが早くて撮影できない。年甲斐もなく少年時代の自分に戻った感覚があり、掬ってみたくなった。 曇り空だったが蒸し暑い日で少し歩くだけで汗が噴き出る。子供の頃は汗まみれになることが全く気にならなかったが歳と共に汗が気になるようになってきた。紫外線も気になるしどうしたことだろう。余計な知恵がついたがために散歩にもたくさんの準備が要るようになった。当たり前だが網とバケツしか持たないで飛び出していた頃のほうが楽しかったように感じる。

朝刊が届かなかった日から一年が経った

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 厚狭川の氾濫で美祢線の橋梁が流されて1年が経った。今思えば自分にとって事の始まりは昨年の7月1日の朝刊の未配達だった。 明け方まで雨が降り続き小康状態になった隙に三隅川の状況を見に行った。かなり増水していることを確認して帰宅したが、未だに朝刊が届いていない。はて? その日は時が経つにつれ、山口市や美祢市等に災害が発生していることが明らかになっていった。さらに美祢線や山陰本線も運休していることが判ってきた。夕方だった?と記憶しているが美祢線の橋梁が何ヶ所?か崩落して流されていることがテレビで映された。 しかしこの時はまだ朝刊の未配達には思いが結びつかなかった。 7月2日朝刊の折り込みチラシ そして2日の朝刊にこのようなお知らせが折り込んであった。 そうだったのか、という納得のすぐ後に運転手は無事だったのかと心配が過ったことを思い出した。 美祢線の四郎ケ原、南大嶺間の第6厚狭川橋梁が流されて1年が経ったわけで今もそのままの状態なのかどうかは知らないが廃線の危機に追いやられていることは変わっていない。 時の流れの速さを思い知るとともに今の時代は何が起きるかわからない恐怖を改めて感じさせられる出来事だった。 この災害には多数の方々が色々の思いや記憶が残されていったことだと思うが明日は我が身と自覚してこのような雑記を残しておく。