長門三隅駅舎に思う

 長門三隅駅が開業して来年の11月3日でちょうど100年目となる、といっても今となっては赤字による廃線の危機に面している(山陰本線、益田-長門市間)わけで「100年目のアニバーサリーイヤー」なんてほとんど知られていないしどうでもよいって風潮だ。

実はこの長門三隅駅は大正13年11月3日にとなりの正明市駅(現、長門市駅)から美禰線の延伸で営業開始された駅で、正明市駅は同年の3月23日に先行して開業されている。といったことで来年(令和6年)が現・美祢線(厚狭-長門市間)の全線開業100周年となるため記念ラッピング車両などで少し盛り上がっていたが、今年6月末の豪雨災害によりそれどころではなくなってしまい、未だに美祢線は全線不通の状態が続いている。

これまでにも何度となく長門三隅駅のことを書き込んできたが今一度振り返ってみる。
大正13年11月3日に長門三隅駅開業に伴い三隅村役場から「三隅志要」という小冊子が発行されている。巻頭に数枚のモノクロ写真が綴じられているが表紙をめくるとトップに久原山を背景にした長門三隅驛の全容が現れる。
約五十頁にわたり「三隅」のことが集約された今となっては貴重な資料冊子で、本編の後には「祝開通」なる各種宣伝が綴られている。鉄道駅の発足にかなり賑わった当時の様子がうかがえる。
その後昭和8年に京都~幡生間が全通したことをきっかけに山陰本線に編入された。今は2面2線の駅とされているが元々は南側に3番線があり上下発着線として機能していた。3番線に夜間留置車両が居た時代もあった。

こ線橋より長門市方面

こ線橋より萩方面
国鉄米子鉄道管理局時代の山陰本線の自動信号化の最後の駅で、米子CTCセンターにて制御されていたがこれを機に駅の無人化が進んでいった。その後JR西日本広島支社長門鉄道部の管理駅となり、さらにCTCセンターも(益田)-長門市間が米子から広島に移された。

さて、話はタイトルの「駅舎」に戻るが最初の写真を見てのとおりで正面入り口がシャッターで閉じられている。右側に造られた言い訳程度の通路兼待合室にてプラットフォームに出られる。当然無人駅で改札もない。元々の駅舎は「はつらつステーションみすみ」という名称で条例まで作って市の管理となっていた。実際は公職選挙の投票所としてシャッターが開く程度だ。

無人にするから人が来ない、列車本数が少ないから人が乗らない、という逆説を掲げたいが、それ以前にシャッターを閉めてしまっては話にならない。先日高齢の方とお話しする中で汽車(列車全般のこと)やバスの乗り方がわからない、という不安を聞いた。行政等から配布された乗り方の案内を読んでも不安ということで気軽に乗れないことを吐露されていた。窓口の駅員さんから切符を買って乗る、という習慣しか知らない高齢者は鉄道離れを余儀なくされる。


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