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MTTが居た!

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 マルチプル・タイ・タンパー(略してマルタイ)ことMTTという保線用機械が長門三隅駅の保材線に留置されていた。 私は偶々見つけたのだが、後に二人の方が写真撮影に来られていたが何処でここに居るという情報を得られたのであろうか?すごい情報網を持っておられるようだ。今でいう「撮り鉄」さんかもしれない。 以上は2024年11月13日撮影のもの。 下の写真のMTTも2019年の3月に偶々見かけた時に撮影したものだがよく似てはいるが少し形状が違っている。 普段見かけない列車がやってくるとやはり撮影したくなるがこれは列車ではなくレールを自走できる機械らしいので乗ることはできない。 瑞風も観光列車もやってこなくなった長門市エリアは鉄道風景が単一で正直寂しいが、たらこ色のディーゼル車が風景によく馴染むので良しとしていたがこんな機械でも走ってくれるとやはりうれしいものだ。しかし走っている姿はなかなか見れないが(夜間のみ稼働か?)停まっている姿でも見れるとうれしい。 特急まつかぜ(後のいそかぜ)がいて急行あきよしやさんべ、準急も走っていて、さらにSLやその貨物列車も居た時代はやはり忘れられない。

100年の時間を経て~長門三隅駅

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 「同年(大正十三年)十一月三日の開通式には、前夜から臨時に電灯を設置して消防組が夜警に当たり、当日は 笛、太鼓、三味線によるしや、きりや 、仮装行列を行うと共に、万国旗を飾った駅前広場で、角力大会や余興大会を行った。また大正十四年に駅長を迎えるに当たって、駅長歓迎会も催した。」 (「豊原のあゆみ(歴史と伝承)」より) 尚、下線部は自分には意味不明 令和6年11月3日(日)文化の日、長門三隅駅は開業100年を迎え、記念祭が催された。開業当時の11月3日は「明治節」という祝日で、如何にも、な日付に開業している。現状の美祢線を鑑み、さらに文頭の文章から当時(大正末期)の三隅村の気配を考慮すると感無量で、それこそ走馬灯のように昭和の長門三隅駅の思い出が蘇った。 会場準備完了! 記念看板の除幕式 記念看板 チラシ キッチンカー パフォーマンス ロボット綿菓子 もちまき もちまき もちまきで閉められたすばらしい祭事(催事)となった。 [余談] 駅前で長年に亘ってタバコ屋さん(簡易な食堂もされていた)をされていた方(奥様)が息子さん?に車いすで連れて来られていて準備の段階からずっと眺められていた。お店をたたまれる前までは委託の切符販売もされていた方で、この光景を見て感極まってしまった。これだけでも今回の記念祭は意義があった。

今年もやってきたモズ

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 今年もモズの柱(毎年やってきて鳴き叫ぶ木柱)にモズがやってきた。 今年初めて鳴き声を聴いたのは10月20日で昨年より2週間遅かった。 単純に猛暑日がずれ込んだせいだと思うが、来なくなるよりは良しとしよう。あとは昨年と同じ個体かどうかだが判断に苦しむ。 ジョウビタキはすでにやってきていて鳴き声だけは聴かせてくれる。そう、「カチ!カチ!」や「ヒッ、ヒッ!」という独特の鳴き声だ。まだ森の中で家の傍までは来ない。たぶんモズが煩いからだろう。 そういえば昨年は見れなかったサケは遡上してくるか?もう11月になったのでまた三隅川にて散策がてら確認しようと思っている。見つかると良いが…。

撮った写真を切り取る

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 昭和の時代には素人にはハサミでしかできなかった写真の切り取り(トリミング)。 まずは切り取る前の撮って出しの写真。 2024年10月12日撮影 横にワイドに切り取った。 縦に長く切り取った。 素人ながらいい感じの写真に見えてきた。 何かに使えそうな気がしてきた。・・・ 山陰本線 飯井、長門三隅間 三隅川橋梁 切り取っただけで、色彩等の加工は一切なし。

久原山トレック便り~その15

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 10月も後半となり「秋深まる」と言いたいところだが超低山は今年はまだまだ紅葉すら見れない。(山の中に入れば微かに紅葉が見れます) 久原山トレックもこれからの季節、山歩きをされる方が増えると予想して荒れた登山道の整備や頂上の草刈りを少しづつだがやってきた。今回はいこいの森の夫婦岩から西のピークまでの登山道と久原山の頂上(地理院地図の頂上とは位置が違う)の草刈りを施行したが強風が吹きさらしてまたまた荒れてしまった。 以下は2024年10月20日の様子。 整備をした後にタマゴタケも発見できた。 ムサシアブミ 三角点(夫婦岩)の様子 紅葉の様子は拝めないが見上げると樹々の隙間から木漏れ日が入ってくる。晴れていればもっときれいかもしれない。 山は人の手が上手に入るとそれなりにお返しを見せてくれる。11月は「ナガトリップ」でのトレッキングも開催されます。 【ナガトリップ】 久原山トレック(紅葉編)

豊原神社の餅まき

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 豊原神社の今年の大歳祭は9月29日に催された。そしてその日の午後に神社境内で餅まきがあった。 「餅まき」は本来神事から始まっているので神社境内でのこういった風景はとても似合うし違和感がない。さらにこのような自治会の大歳社祭事に伴って催される小規模なもちまきはなおさら楽しい。 (自治会の回覧にて周知) 先日(10/12)も中村自治会にて熊野権現社の秋祭りでもちまきが催された。 つい先日まで「猛暑日」と口にしていたのが一変し過ごしやすい気候となってきた。もちがまかれた後に青空を見渡してふっと能登のことを思い出した。

三隅の祠とお地蔵様~三隅の庚申塚

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 豊原神社境内の片隅に「三隅地方には珍しい庚申塚がある」。 (「」内は三隅町の歴史と民俗より抜粋) (三隅では希少、という意味) 自分の記憶の中では三隅においては庚申塚が3カ所思いつく。上方から順に杉山梶ヶ原、宗頭大歳社境内、豊原神社境内の3カ所だ。 杉山 梶ヶ原の庚申塚 梶ヶ原は杉山最奥地の廃屋が残っている辺りの地名(小名)で、地形でいうと秋芳の大滝地区に最も近いゆうが垰の入口でもある。ただこの垰への道は廃道と化して歩ける状態ではないが杉山銀山採掘坑跡地の近くで最盛期には大滝の精錬所への銀鉱や銅鉱の運搬道であったはず。秋芳の大滝には「たたら跡」があり精錬した鉄や銅を長登銅山に持って行ったと記録があるようです。この流れと庚申塚がどのように結びつくのか、または関係がないのかが不明のままだ。 宗頭 大歳社の庚申塚 旧宗頭大歳社は老朽化が進み立入禁止状態だと思うが社殿横の庚申塚はお世話(縄の付け替え)がされているのであろうか厳しいところだ。「猿田彦の塚」とも呼ばれた庚申塚だ。 豊原神社の庚申塚 気を遣れば列車からでも見れる豊原神社の庚申塚。元々は笠森社(旧大歳社)から移設されたとの謂れがあるが周りの五輪塔もそうなのか不明。 ところでこの庚申塚の「庚申」は「かのえ・さる」で干支から来ていて庚申塔ともいわれ江戸時代初期から建立されていった。ところが明治時代に政府は庚申信仰を迷信と位置づけして街道筋に置かれたものを撤去又は移転していったが、寺社境内や私有地に移転されたもののみが残ったようだ。 先に記したように三隅にはこの三カ所しか思いつかないが過去にはもっと在ったのかもしれない。

鎖峠のトンネル

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 タイトルでは「鎖峠(くさりだお)」と書いたが過去には「鎖板峠(くさりいただお)」と呼ばれた宗頭から萩市への峠越えの国道191にある三つの隧道のこと。 峠には萩側から順に鎖坂隧道(くさりざかずいどう)、榎谷隧道(えのきだにずいどう)、白拍子隧道(しらびょうしずいどう)の三つのトンネルがある。 鎖坂隧道と榎谷隧道は昭和40年竣工、白拍子隧道は昭和41年竣工で約60年が経過した古参のトンネルだ。ただし榎谷隧道を並走した榎谷洞道は明治26年に開通した130年を超す歴史遺産だ。以前にも書き込んだことがあったので詳細の記述はおいて今回は「 白拍子 隧道」のことを書き添える。 本来「白拍子」とは男装した女性が詩吟や和歌を詠いながら舞う芸、またはそれを演じる役者のことで元々は巫女舞から始まっている。調べてみると平安末期から鎌倉初期の頃に生まれた?言葉のようだ。静御前が出てきたのはびっくり。 そんな言葉「白拍子」がなぜに三隅上地区の地名(小名)に残っているのか不思議だが三隅には源範頼の供養塔や墓が存在している。何かの縁(ゆかり)があるのかもしれない。 (ただし場所は白拍子トンネルとは少し離れている。) 白拍子トンネルのすぐ北側には三隅では唯一当時の現状を残した 赤間関街道 の七曲り道(七曲八丁)が残っており、そして日尾川にかかった三見の眼鏡橋と同じ形状の「鎖板橋」もその途中にある。しかしながら全くの未整備で歩ける状態ではない。せっかくの歴史街道がありながら未整備のため沈黙のまま廃れていきそうだ。残念かつ無念だ。 以下は以前上げた榎谷洞道の写真。 撮影時に野生動物の気配(ガサガサ音)がしたので今回は洞道の入口まで行かなかった。未整備の場所は近づかないほうが良い。 最後に鎖坂隧道を残す。

映画館があった頃

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 昭和を半分生きた自分の世代がギリギリ長門市に映画館があったことを覚えているか、親や兄姉の話で思い出すかの世代だろう。 昭和31年の長門市(正明市)内の映画館の上映記事(宣伝)だが戦後約10年が経った頃の正明市の気配をうかがえる。子供の頃よく耳にしていた「近松座」と「長門映劇」は入った記憶はないが場所は凡そ覚えている。仙崎の「仙竜館」や「仙崎座」は名前こそ聞いたことはあるが何処にあったのか知らない。 上映タイトルを見ると怪し気なものが多いなか「帰らざる河」や「太陽の季節」は正統派(当時の人気作品)だと思うが「北極物語」は聞いたこともない。調べてみると当時のソ連の映画らしく北極海に生息する生物を追ったドキュメンタリーのようだ。 よく見ると映画館同士でフィルムを掛け持ちして上映していることがうかがえる。そして映画館ごとの系列?も見えてくる。 映画館の最盛期とされる昭和35年は全国に7457軒あったとされるが、地方の映画館は元々が芝居小屋であったり酒蔵などを再利用されていたことが多かったようでわざわざ映画館を新築することは少なかったと何かの記事で読んだことがある。 映画館ではないかもしれないが昭和35年頃には野波瀬でも旧酒蔵で映画の上映があったり、豊原には「豊原会館」という映画館?もあった。俵山にも湯町に「俵山映劇」という映画館があったようですべて映画館數がピークを迎えたころのことでそれ以降は廃れていった。 今現在は長門市には映画館は皆無状態だが「ルネッサながと」に偶に映画を見に行く程度となった。自分的には1970年代後半には結構足を運んでいたがこのころは生活の拠点が都会だったことが大きい。 近年地方の映画館はコロナ禍の影響にネット配信も加担して絶滅寸前となっている。今年の2月だったか山口市のYCAMシネマに行って、観客は自分を含めてほぼ前期高齢者?だったように思う。ゆったりと鑑賞できたことは満足だったが上映が終わって照明が点いた瞬間に時代の変化と自分の年齢を感じてしまった。(上映された映画のジャンルにもよるが・・・) YCAM CINEMA 色褪せた古い一枚の上映記事から色々なことを思い出してしまった。

令和6年の秋祭り

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 猛暑日が続く中、三隅八幡宮にて秋季例大祭が催された。令和6年9月16日(月)敬老の日のこと。 【奉納神事】 13:00~ 滝坂神楽舞 13:30~ 巫女舞・剣道演武・浦安の舞 14:00~ 腰輪踊り(浅田・市) 15:30~ 奉祝もちまき 16:00~ 渡御祭 近年の三隅八幡宮の祭事ではちょっとしたブームがあるようで、それが何かというと自分も含めてのことだが祭事や神事をカメラやスマートフォンに記録する方々が目に見えて増えていることだ。それも見渡す限りでは男女問わず高齢者の方々が多くみられる。そして撮影機材も財力があるせいかプロ並みの高価なカメラで映されている。自分の安価なハンディタイプのカメラでは周りの視線が気になるほど場所取りに気遣いする。しかしそこは日本の素敵な高齢者の方々、マナーがすこぶる良い。控えめで変な自己主張がない。ローカルさも加担して皆さん顔見知り?かのように会話をされる。居心地が良いのだ。 近年の自然災害の激甚化を踏まえて自分たちの育った町の四季折々の風景を残そうとする思いなのか、親族等の姿を残したいのか、はたまた単なる趣味なのか、色々の方々が色々の思いで撮影されていることが分かってきた。それも撮影機材の高性能化が伴ってのことですばらしい映像や画像が残っていく。