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7月, 2025の投稿を表示しています

二条窪観音堂と無量講

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 桜楓山荘(楫取素彦邸跡)の裏手に楫取素彦の妻、寿(吉田松陰の妹)が創建した観音堂がある。 堂内に置かれた阿弥陀如来と千手観世音菩薩は、約600年前にこの地に創建された「善願寺」(廃寺はいつか不明)に祀られていたものと伝承されている。 無量講(通称:お講)は寿女史が毎月一回(二回?とも伝わる)村人を観音堂に集めて法座を開いていたことに発して、今現在まで続いている報恩講である。 元々の観音堂は旧県道の外れに在ったらしく道路改良工事の時に現在地に移転新築されたもの。 7月27日に豊原の宗善寺ご住職による法座が開かれ、参席させていただいた。 法座が開かれるときは阿弥陀如来の右側に「六字名号(南無阿弥陀仏)」の掛物が掛けられ、その掛物は当家(当番の家)でもち回っておられるため普段は空白だ。 この掛物(六字名号)は寿女史が関東へ出発にあたり、形見として二条窪の人々のために残されたものと伝えられている。西本願寺二十一世妙如上人御真筆のもので箱中添書きには最後に「二条窪講中寶物」と記されている。 桜楓山荘 観音堂近辺の二条窪川 楫取 寿(かとり ひさ)は前述のとおり吉田松陰の妹で幕末から明治中期に生きた人。名前は「寿」だと思っていたが「寿子」と書かれた版物?もあるようで、憶測ではあるが旧姓の「杉 久子」という読みから来たものかもしれない。中途半端な知識ではあるが紛らわしいので書き添えておく。

夕刻の仙崎漁港

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 波穏やかな漁港内と人工島への橋付近の風景。 人工島へ渡された橋。 仙崎漁港は仙崎半島に沿って北端から南へ約1Kmの幅を持つ割と大きな漁港で、センザキッチンまで入れると1.2Kmほど伸びる。半島といっても北側に青海島が控えているため波穏やかな漁港だと思っている。 夕刻といってもまだまだ明るい。撮影時刻は17時半頃だ。漁港を抜ける風は涼しくて昼間の猛暑が信じられないほど体感温度は下がっている。かといって散歩をする人は見かけなかったが夕涼みはもう少し日が落ちてからなのであろう。

まちなか展望台から観る山々

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 青海島観光ホテルの跡地に完成した仙崎交流プラザの屋上に「まちなか展望台」がある。 その展望台から眺望する長門市内や市境界の山々の稜線がとっても素敵だ。 標高600m~700mの三隅アルプスは圧巻! 仙崎漁協の建屋で陰になってしまう「久原山」が見えないのが少し残念であった。 ※ 「三隅アルプス」は日本アルプスの5分の1サイズとして筆者が勝手に呼んでいるものです。 ワイドサイズ

沢江より床の海を眺める

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 仙崎湾は場所によりその呼び方が変わる。今回は沢江から観た風景を載せる。 この地(沢江)は古くは「袖の湊」と云われ古来詩歌に詠まれたものが少なからずある。そして沢江湾は「床の海」、三隅川尻を泪川、とした和歌もある。 床の海に流れて落つる泪川 袖の湊にさわく名もうし・・・醍醐入道 青海島の山々を臨む 小島の先、和田の鼻 沢江の海岸 大阪住友セメントベルトコンベア ここで水を差すような話をすると、昭和40年代後半から50年代にはこの辺りでは異臭がして自転車で通ることが本当につらい時期があった。当時は今のバイパスが無かったためどうしてもこの臭いを嗅いで3年間通学するしかないわけで、小浜峠の旧焼却場の悪臭と共にダブルパンチをくらっていた時代だった。 当時を思うと今は全く臭わないし風景もきれいになってきた。村田清風翁の観た風景を観てみたいものだ。

三隅の祠とお地蔵様~二条窪の祠

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 「二条窪」と書いたが三隅町の頃の資料には「二條窪」と記されている。当集落の方に聞いてはみたが何時から「条」の字を充てたか不明とのこと。 以前に二条窪の祠は書き込んだことがあるが祠の名?が不明だったので今回新たに書き残す。 最初は春祭の「柳ヶ森祠」 次に秋祭の「荒神祠」 今年の夏祭に同行させていただき、その様子を撮影できた。(感謝!) お祭りの準備は手際よくされた。 そして夏祭の「大神祠」 神主さんと集落の方々が山道を登っていく。以外に森の中は涼しい。 一旦尾根まで上がって少し下がった斜面に祠が鎮座されている。 実はこの山道は尾根から先は才ヶ峠から奥畑、さらには真木集落へ抜ける道で過去には人々の行き来があった道だ。現在の県道268号線で石原峠を越えて行くより才ヶ峠を越えたほうがずっと早く真木集落へ行けたはず。 ところで上の地理院地図に書き込んだ二条窪の祠の位置を見るとほぼ一直線状に並んでいる。意図的なものかどうかは分からないが無意味ではないように思えたりする。

昭和39年の時刻表から

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 昭和40年代半ばから一人で汽車に乗っていた記憶があるのだが当時の列車や駅の記憶がうろ覚えの部分があり、50年代の記憶と交ざってはっきりしないことが増えてきた。半世紀以上前の事だから当然かもしれないがそれにしても情けない。 ところで何年か前に書店に立ち寄った時に1964年の「国鉄監修時刻表」(復刻版)に目が行き、すかさず手にした。そしてしばらく本棚に置いたままだったそれを久々に手に取って山陰本線のページを眺めた。 山陰本線 下り 切り抜き1 長門市や下関の駅名表示の左側の記号が懐かしく、今残っているものは何もない。 これらの記号(マーク?)の中で駅弁マークだけは2018年頃まで確か残っていたように思うが「洗」、「電報」、「赤帽」は見ることはなくなった。 「洗」マークは蒸気機関車全盛時に煤で汚れた顔を洗うための洗面台がホーム上にある駅を表している。長門市駅のものはそれを知らずに飲料水と思って飲んでいたような記憶がある。けっしてトイレマークではありません。 「電報」マークはその言葉の通りだが当時の電電公社のものなのか、国鉄独自の通信線による駅間同士の電報?なのか分からないが、漁協会館などにも電報や電話マークが入口に貼ってあったことは覚えている。現在でも電柱やマンホール等に同様のマークが残っている。 「赤帽」マークは大構内を抱えた駅や全国の主要駅などに在ったように記憶しているが、乗客の手荷物を駅構内やホーム上へ運ぶサービスだがそのサービスをする方たちが赤い帽子をかぶっていたことに由来する。下関駅に赤帽さんがいた記憶が自分にはなかったが当時エスカレーターやエレベーターが無い時代、ホームが高い位置にあったため赤帽さんがいても不思議はない。昭和50年代に東京駅でそれに近い方(赤帽さんだったのかも?)を見た記憶はある。 そして「弁」マークの駅弁販売のある駅のこと。今の時代「旅行」というより「移動」という言葉のほうがふさわしくなってきていて駅弁という文化が鉄道から消え去ろうとしている。特に地方においては列車の中で駅弁を食べる風景は見たことがない。食べれるような列車が無いことが一番の問題?だが、わが町を通る山陰本線は特急列車や急行列車が消え去り長距離を走る列車が皆無だ。つまり食事をするほど長く乗って行ける列車が無いのだ。当然駅弁を作っても買ってくれる客がいない。 話は変わるが...