昭和39年の時刻表から
昭和40年代半ばから一人で汽車に乗っていた記憶があるのだが当時の列車や駅の記憶がうろ覚えの部分があり、50年代の記憶と交ざってはっきりしないことが増えてきた。半世紀以上前の事だから当然かもしれないがそれにしても情けない。
ところで何年か前に書店に立ち寄った時に1964年の「国鉄監修時刻表」(復刻版)に目が行き、すかさず手にした。そしてしばらく本棚に置いたままだったそれを久々に手に取って山陰本線のページを眺めた。
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山陰本線 下り 切り抜き1 |
これらの記号(マーク?)の中で駅弁マークだけは2018年頃まで確か残っていたように思うが「洗」、「電報」、「赤帽」は見ることはなくなった。
「洗」マークは蒸気機関車全盛時に煤で汚れた顔を洗うための洗面台がホーム上にある駅を表している。長門市駅のものはそれを知らずに飲料水と思って飲んでいたような記憶がある。けっしてトイレマークではありません。
「電報」マークはその言葉の通りだが当時の電電公社のものなのか、国鉄独自の通信線による駅間同士の電報?なのか分からないが、漁協会館などにも電報や電話マークが入口に貼ってあったことは覚えている。現在でも電柱やマンホール等に同様のマークが残っている。
「赤帽」マークは大構内を抱えた駅や全国の主要駅などに在ったように記憶しているが、乗客の手荷物を駅構内やホーム上へ運ぶサービスだがそのサービスをする方たちが赤い帽子をかぶっていたことに由来する。下関駅に赤帽さんがいた記憶が自分にはなかったが当時エスカレーターやエレベーターが無い時代、ホームが高い位置にあったため赤帽さんがいても不思議はない。昭和50年代に東京駅でそれに近い方(赤帽さんだったのかも?)を見た記憶はある。
そして「弁」マークの駅弁販売のある駅のこと。今の時代「旅行」というより「移動」という言葉のほうがふさわしくなってきていて駅弁という文化が鉄道から消え去ろうとしている。特に地方においては列車の中で駅弁を食べる風景は見たことがない。食べれるような列車が無いことが一番の問題?だが、わが町を通る山陰本線は特急列車や急行列車が消え去り長距離を走る列車が皆無だ。つまり食事をするほど長く乗って行ける列車が無いのだ。当然駅弁を作っても買ってくれる客がいない。
話は変わるが時々地元のスーパーマーケットで全国駅弁フェアがあるのだがいつも思うのがその値段の高さだ。これはコンビニ弁当にかなうわけがない。特に若者は絶対に手を出さない。
ところで昭和の時代、長門市駅1番ホームから待合室のキオスクの窓越しに駅弁が買えたのは覚えている。「さがや」のおにぎり弁当を置いていたことが懐かしく思える。ちなみにその頃は2・3番線ホームには立ち食いうどん屋さんがあり、何度かお世話になった。
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山陰本線 下り 切り抜き2 |
最後に時刻表の列車のことだが特急「まつかぜ」はもちろんのこと準急の「やくも」や「しんじ」そして「あきよし」は外せない。何が「外せない」かというと個人的な思い出がありすぎて、という意味だがそれよりびっくりしたのが当時は全く知らなかった「811」という京都始発・門司行きの深夜帯に長門市エリアを駆け抜ける列車がいたことだ。決して特急でも急行でもない普通列車のようだがこんな長距離を走っていたとは驚きだ。
時刻表は読み物だ、と言った人がいたがまさにその通りだと感じる。
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夕刻の長門市駅(平成24年) |
長々と駄文を綴ったが鉄道の記憶というのは懐古なだけではない何かが自分の中に入り込んで血沸き(湧き?)肉躍る原動力になっているように思ったりする。
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