美祢線の歴史と明倫小学校(その1)
先月の事だが親しくしていただいている高齢の方から「開校百周年に向かって 明倫小学校の思い出 (明治・大正)」という小冊子を見せていただいた。
百周年事業の一環として「明倫小学校百年史」が昭和59年9月に発行されたことに鑑み発行された冊子で思い出の作文集として読んでみると、多くの興味深い記録が書き込まれていることが分かってきた。
よく出てくるキーワードに「大水が出て校舎が流された」、「遠足で久原山に登った」、そして一番印象に残った「高等科一年、二年の時に修学旅行で重安まで二十五キロの道を歩いていき、そこから初めて汽車を見、そして汽車に乗った」という記録だ。修学旅行の行先は下関市だったり山口市だったりしたようだ。
当時の美祢線(美禰軽便鉄道)は厚狭駅から重安駅までしか開通していなかった時代。於福駅は大正9年10月、渋木駅から正明市駅までは大正13年3月に開通している。
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重安駅-1 |
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重安駅-2 |
背景の山の切れ目辺りから石灰石を運ぶコンベアーが厚狭川を跨いで駅の線路上のホッパーまで在ったように記憶している。この山の向こう側は広大な石灰の採掘場の山々がある。
ここで「重安駅の次が伊佐駅」という箇所に注目すると伊佐駅(美祢軽便鉄道の頃)というのは現在の南大嶺駅のことで、大正5年以降の修学旅行ということになる。(「乗ろうよ美祢線・美祢線の歴史」より)
重安駅~伊佐駅間の「上領停留所(大正9年に廃駅)」、「吉則停留所(大正9年に駅に格上げされた現・美祢駅)」が抜けているのは修学旅行の列車が停留所には停まらなかったのであろうか?それとも記憶違いか。
以下、「伊佐駅には真黒い石炭を積んだ貨車が幾台も連なっていました。」との美祢線の歴史の中枢となる伊佐駅と大嶺線のことは(その2)へ続く。
(後記)明治、大正時代の明倫小学校は旧三隅町公民館(後の中央保育所)の辺りにコの字型の校舎が在ったようで幾度も三隅川の堤防の決壊で校舎が流されていたと記録にある。昭和の時代に河川改修を行ったときに「以治水郷土安泰」の石碑が豊栄園に置かれた。稲田町政の頃だった。
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