美祢線の歴史と明倫小学校(その2)

 前回、「伊佐駅には真黒い石炭を積んだ貨車が幾台も連なっていました。」という明治・大正期の明倫小学校の思い出文集の修学旅行の一文をピックアップしたが、この伊佐駅というのは後の「南大嶺駅」で、「真黒い石炭」というのは大嶺炭田で採掘された良質の「無煙炭」に外ならない。

ここで美祢線の歴史の発端をひも解くと・・・

明治37年、日露戦争にて軍艦の燃料のため徳山海軍練炭製造所へ大嶺炭田で採掘される良質の石炭(※無煙炭)を大量に運搬するため大嶺~厚狭間に鉄道を敷く必要があった。当時はすでに下関まで山陽鉄道が延伸されていたため、厚狭から大嶺までの19.6Kmを大至急鉄道敷設するように海軍より要請された、というのが美祢線の始まりだ。(※蒸気機関の軍艦から黒煙が出ると敵艦に見つかりやすくなるので無煙炭である必要があった。)

大まかな歴史を路線図で説明
つまり美祢線は厚狭駅から大嶺駅間でスタートしており、現在の美祢駅から重安駅間はその少し後、そして於福駅が出来て於福駅・長門市駅(当時は正明市駅)間はさらに後(大正13年3月)にできている。ちなみに長門三隅駅まで美祢線が延伸されたのは大正13年11月3日だ。当時はまだ山陰本線がこのエリアまで来ていなかったため、長門三隅駅から宇田郷駅までは美祢線の延伸で伸びて行った。そして幡生方は正明市駅から阿川駅までも延伸されていった。

ということで南大嶺駅はその後今の美祢線から大嶺線への分岐駅となっていったわけだがその大嶺線は1997年に廃線となった。
美祢線大嶺支線の乗り場だったホーム跡地

ところで大正時代にはどんな機関車で石炭を運んでいたか、というと想像でしかないが下の写真のような機関車であろうと思っている。
この写真は昭和14年の頃の正明市機関区の転車台と扇形庫が写ったもので、大正期から使用されていた機関車らしい。(お父様が長門機関区に勤務されていた方から見せていただいた写真)

大正時代に履き替え草履と握り弁当を腰にさげて重安駅まで歩いていき、初めて見た汽車がこれだった?かと思うと色々の苦労や喜びを想像してしまう。(明倫尋常小学校高等科の修学旅行)

次回は「重安駅の真白い石灰石」のことをもう少し書き残そうと思っている。

(その3)へ続く


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