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6月, 2023の投稿を表示しています

三隅八幡宮の一ノ鳥居

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 以前よりここをくぐらせていただく度にいつの事だったかを思い出せなくてため息が出る「事(こと)」がある。 一ノ鳥居・正面  2023年6月25日撮影 一ノ鳥居・裏  2023年6月25日撮影 それは 倒壊した「一ノ鳥居」を見た記憶 のことで、台風が通り過ぎた後の事だったことは覚えているが何時の台風だったかが思い出せないでいる。 八幡様に聞けば分かるであろうが未だに聞けないでいる。 三隅八幡宮 2023年6月25日撮影 二ノ鳥居 2023年1月16日撮影 鳥居の柱には「平成十一年一月吉日」と刻んであるのでそれより前なのだが、平成11年1月以前で三隅を襲った猛烈な台風の記憶は平成3年(1991年)の17号と19号が特に記憶に残っている。ただその時に倒壊したのかどうかが思い出せないのだ。もしそうだとすると7年以上も一ノ鳥居は無かったことになる。 平成3年の台風17号(9/14頃)と19号(9/27)は両方ともその中心が三隅町の全域を舐めるように通過しており17号のほとぼりが冷めぬうちにもっと強烈な19号が通過した。この19号はそのまま東北まで勢力を保ったまま進んでりんご園に甚大な被害をもたらし、結果 りんご台風 という名前で呼ばれるようになった。 昭和29年の「洞爺丸台風」にしてもこの「りんご台風」もネーミングからして当時の長門市や三隅町を襲い甚大な被害をもたらした台風のようには想像できない。市史や町史に残るような酷い台風だったのに。 いつかこの「事」の真相が分かったら再度記録しておこうと思っている。

赤間関街道北道筋のこと~その7

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 ヒストリア長門の駐車場で見つけた街道の道標。 2023年6月24日撮影 2023年6月24日撮影 実は何年か前に道標を探しに赤間関街道の分かれの辻を散策したことがあって、今は駐車場になっている角地に石柱があったような不確かな記憶をたどって来ては見たが何も見つからず引き返したことがあった。 それが今になって対面できた次第だ。昔年の思いが叶ったような出会いだ。さすが「 ヒストリア長門 」です。素晴らしい! 元々はこのような現代的な道ではなかったはずで、それこそ四辻の真ん中に建っていた道標かもしれない。 現代において街道の分かれ道に旅館(吉亀旅館)や茶店(村岡湖月堂)があることが素敵で、昔日を偲ぶに気分が高調する。 三隅地区においては一里塚跡が全く見つからず難儀な状況であったが故今回の発見(周知のことか?)は自分にとってはさらなる調査のきっかけとなりそうだ。 [後記] 三隅における一里塚が在ったとされる場所は追分の上「曲坂一里塚跡」、「中小野一里塚跡」、「浅田一里塚跡」の三カ所だが今はどこにもその形跡すらない。唯一浅田には「一里塚」という小名が残っているのみ。 これは 歴史街道がある町としてはもったいない ことだと思う。

梅雨の晴れ日

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 カラッとは晴れないが薄っすらと青空が見えると外に出る。 水田を覗いてじっとしていると・・・今年も見つけたホウネンエビ。 干したウメの匂いに六月を感じる。 夏野菜も準備完了。ミニトマトも実ってきた。

向山ヤマモモルートでヤマモモを拾う

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 タイトルの通りの季節となった。 2023年6月11日撮影 2023年6月11日撮影 ヤマモモルートには本当に多くのヤマモモが自生している。 熟した果実は甘酸っぱく生食やジャムになるが、乾燥した樹皮(楊梅皮と呼ばれる)も薬用になるとのこと。 2023年6月11日撮影 落ちた実は衛生上、生で食べてはいけません。 2023年6月11日撮影 曇天で風もない。 2023年6月11日撮影 イチヤクソウの花が咲いていた。 イチヤクソウは「一薬草」で、久原山頂上にはその昔「薬師寺」があったそうでいかにも、な山野草だ。

久原山トレック便り~その10

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 夏草が茂ってくる中、向山からの登山口へのアプローチ道は季節の野草でいっぱいだ。 ドクダミ草の花 看板傍のトラノオ トラノオ拡大 今年はトラノオが昨年より少ない。 クサイチゴ 草陰で見つけたこのイチゴは美味しい。 昼間のホタル せっかく見つけた蛍はピント外れだった。残念! この登山口へのアプローチ道は、元々はミカン畑へ続く山の斜面だった場所で、ヒノキやスギの植林がされていた。荒れ放題の斜面が今は雑木の素敵なトンネルになりそうだ。

三隅の祠とお地蔵様~久原(続編)

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 過去に一度久原地区のお地蔵様を上げたが今回はその続編。 旧三隅町で一番古いと思われる石仏。(寛保元年四月十四日?=1741年4月14日)この石仏は薬師堂の跡地にいらっしゃるとのことで現在の公会堂の場所に薬師堂が在ったのであろう。 石仏横の塔には、はっきりしないが「雲岳衍靜禪師塔」?と刻まれているように見える。薬師寺の僧の名前かな?それとも石仏の作者か。 下は以前に書き込んだ久原地区の墓地に向かう途中の地蔵尊。 そして久原山登山口の大歳社。 久原山頂上の祠のご神体がこの大歳社に一緒に祀られていると聞いた。 山頂の祠は元々ここに薬師寺が在った場所に置かれた祠とのこと。 その昔江戸時代には久原山は坊ノ辻山と呼ばれていたようです。 ところで久原集落の背になる久原山の山頂のことだが、三隅町の地籍調査用に植えられた地籍図根三角点の位置に地理院地形図には 標高点 がうってある。 問題なのはその標高点左側に「久原山」と山名が振ってあるがために地形図の山頂は古くから地元民が云う祠のある山頂と違ってくる。GPS搭載アプリで確認すると204と記された標高点の標高は199mとなる。(因みに地元で云う山頂でみると202mとなる。)誤差は当然あるが、なぜこのような事象が発生したのか不思議でならない。 地理院地形図より 「北峰と南峰」と記した山歩きの手記なども見当たるが防長風土注進案や地下上申を漁ってもはっきりしない。 山頂の祠が薬師寺の跡だとすると標高からしてもやはりこちらが久原山山頂であるべきで、地元民や登山者を迷わす地形図を修正する必要があると思う。