投稿

2025の投稿を表示しています

鉄道のある風景(続き)

イメージ
 サイズ変更以外は何の加工もせずに撮って出しの写真だが自分的には秋を感じられるように撮影したつもりだ。ただ天候がもう少し良ければ、と情けない言い訳しか出てこない。 観光列車「はなあかり」の写真を撮りたかったが待っても待っても来なかった。通過時刻の予想が見事に外れた。帰りに寄った長門三隅駅で時間つぶしに撮った2枚の写真を残す。 JR西日本のロゴがついているが、昔の駅名板には当たり前だが「国鉄」とは書かれていなかった。そして「長門三隅」のフォントも国鉄時代より角ばっている。 開業100周年記念看板が建植されて一年が経とうとしている。風景に馴染んできた。 この時、空高くに何羽かのツバメが飛んでいたのを見かけたが、10月になっても日本に居るのは珍しいことだと思う。大抵は9月に入って直ぐに集団で南方へ渡っていたと思っていたが今年はどうしたことか未だ居る。何をきっかけに渡り始めるのかわからないが夏が長すぎたことと気温が高すぎたことに関係しているのかもしれない。

鉄道のある風景

イメージ
 先月の29日(月)のこと、長門市内のJR山陰本線沿線の知人宅で列車の通過音を聴き何気なく窓から外を眺めるとなんと「瑞風」が通過(上り)していった。これは驚いた。そしてすぐに思い起こしたのがその二日前に粟野川橋梁が2年の時を経て復旧工事が完了し開通したことだ。 つまり2年以上「瑞風」はわが町に来ていなかったし、もう来ないかもしれないという思いがあったがため、本当に驚いた。 そして昨日、観光列車「はなあかり」が長門市にやってきた。 普段、1両か2両のたらこ色のディーゼル列車しか見れない地域にトワイライトエクスプレス瑞風や観光列車がやってくることの意義を考えてみたが、通過していくだけの田舎町には何も思いつかない。せめて日本の原風景?でも眺めていただければ、と思ったりする。 長門三隅・長門市間 飯井・長門三隅間 ところで「鉄道のある風景」としたが昔の線路(特に道床)はこんなに草が生えていたっけ?といつも思う。バラストの辺りにスギナが生えていたような記憶はあるがこれだけ雑草が生えている風景はあまり記憶がない。列車本数が多く、人も多く充当できていた時代と風景が違っているように思えてならない。外来植物が蔓延ったり除草する回数が減ったりいろいろな要因があるであろうが昔のほうが鉄路は風景としては綺麗だったように思えてならない。(不衛生な部分はあったがそこは今回は省く)

秋彼岸の頃

イメージ
 明け方の涼しい風が少し寒い風に変わってきた。 今年もお彼岸の頃の風景が楽しめる季節となった。 三隅川下流域 藁ロールのある風景 刈入れ後の稲株 畦の彼岸花 稲を刈った後の株から次の稲が生えだしている。背景の連なった山々は枯れる前の水田と合わさって豊かな日本の風景となっています。今後は山々の紅葉が始まり、そして冬へと季節が変わっていきます。 畦の彼岸花は知ったかのように秋分の日を狙って咲き始める。不思議だ。 ちなみに「畦」と「畔」は微妙に使い方が違うそうだ。

キノコの森を満喫

イメージ
 今年は秋が無くていきなり冬が来る、というような報道を耳にしたが里山にはしっかりと秋が来ている。ヒガンバナも咲き始めた秋のお彼岸二日目、久原山トレックの向山からいこいの森へとピストントレッキング。 タマゴタケ1 タマゴタケ2 タマゴタケ3 タマゴタケ4 シロオニタケ1 シロオニタケ2 タマゴタケ5 タマゴタケ6 明け方の冷え込みから一転して汗がにじむような気温の中、分岐点からいこいの森のピーク夫婦岩を目指す。尾根を抜ける風は秋風で涼しく気持ちがよい。途中雨が降ったが森の中は濡れずに歩ける。湿度の塩梅がちょうどよかった?せいか登山道辺りはキノコでいっぱい。その中でも写真のタマゴタケは紅色が目立って山歩きを楽しませてくれる。名前もかわいいが姿もかわいい。 シロオニタケも鬼の金棒のような尖ったイボがあって不思議な姿を見せてくれる。 山野草や樹木もそうだが季節が変わりゆく中で今しか見れない花や実に出会えたことが嬉しく、また来年も出会えることを願って復路を歩く。

令和七年 三隅八幡宮 秋季例大祭(秋祭り)

イメージ
 秋季例大祭とはいえ夏祭りと言いたいほど暑い日だった。 令和七年九月十六日(火) 三隅八幡宮正面 兎渡谷神楽舞 腰輪踊 豊原 腰輪踊 豊原 腰輪踊 豊原(2回目) 三隅の腰輪踊は「県指定無形民俗文化財」です。

赤間関街道を今一度~三見市・床並へ

イメージ
 前回の旧萩市内に続いて大照院辺りから街道を進んでいく。 地図は現在の地理院地図をモノクロに変更し少し落書きを加えたもの。 桜江辺りから橋本川沿いに進むと「道祖神社」がある。この小さな神社は昭和61年の県道拡幅の際に橋本川側に数メートル移転されたもので今はコンクリート造りになっている。そこからJR山陰本線を跨ぎ面影山に沿って進むと今の国道191号線に出会う。しばらく街道は玉江川に沿うが奥玉江を過ぎたあたりから街道筋は消えてしまう。今もってはっきりとしないが消え去った山道が中山集落へと続いていたと思われる。この消え去った街道筋に玉江坂御駕籠建場(おかごたてば)があったとされる。今は通行不可であろう。 そして街道は今の国道筋に戻り、街道杉のようなヒマラヤスギ?を目印に右へと入り三見市に向かう。(写真1)途中右手に観音堂があります。(写真2) 三見市(さんみ いち)は旧宿駅で人や馬を取り次ぎ宿や食糧を提供していた街道の拠点で、今でも街道沿いに軒を連ねる家々が立ち並んでいます。(写真3)(写真4) 市の家並みを過ごして山道を進むと床並の一里塚が建っています。(写真5)その目前に三見橋(眼鏡橋)が跨っています。(写真6)そして床並集落(写真7)へと進みます。 その後はまたまた国道に出てすぐに鎖峠(鎖板峠)を越して三隅村へと入っていきます。(写真8) 写真1 写真2 写真3 写真4 写真5 写真6 写真7 写真8

赤間関街道を今一度~萩市内

イメージ
 近世、萩城下の唐樋札場より赤間関(下関)へとつながる街道がありました。 萩城跡 萩城より御成道を東へ田町商店街を抜けると札場(唐樋の札場)があります。ここが萩往還や赤間関街道のスタート地点になります。 唐樋の札場 唐樋の札場 唐樋の札場を南下し金谷神社(天満宮)を左に過ごし現在の萩駅前の濁淵を左に行くと萩往還や赤間関街道中道筋、右へ曲がると赤間関街道北道筋(北浦道筋共)と進みます。 金谷天満宮 萩駅舎から観た萩駅前 濁淵には一里塚があったとされるが現在はその形跡もなく、さらに西に向かうと萩藩主毛利家の菩提寺大照院の前を通る。さらに旧道を進むと桜江の渡し場跡があったとされるがこれもその形跡はない。この渡し場は河添と桜江を結ぶ渡し場で大照院の参詣に使われることが多かったと記録されている様子。そしてさらに進むと旧山田村へと入っていく。 今回の記録はここまでにする。 [後記] 赤間関街道のルートは三つあり、まず内陸部の明木(萩市)・秋吉(美祢市秋芳町)を経て吉田(下関市)で山陽道と合流する「中道筋」(約75㎞)。続いて、正明市・俵山(長門市)を経て小月(下関市)で山陽道と合流する「北道筋」(約80㎞)。そして正明市・粟野(下関市豊北町)・川棚(下関市豊浦町)を経る「北浦道筋」(約96㎞)です。 わが町、三隅は北道筋と北浦道筋の共通部分の街道筋で一里塚も3箇所ありました。曲坂一里塚(追分の上)、中小野一里塚、浅田一里塚です。

高潮の日~小島

イメージ
 高潮注意報と言われても内陸に住む人々には聞き逃しそうな予報だが、沿岸部に暮らす方々には聞き逃せない予報だと思う。今回は三隅の小島漁港の風景。 道路に乗り上げそうだ。 旧漁協の前 雨水ではありません。 市場前はこれから・・・ 側溝から海水が湧き出てきた。 台風でも接近して満潮を迎えてしまうと最悪の事態になりかねない状態だ。 フィッシャリーナ小島に停泊中のクルーザーも普段より位置が高い。 猛暑日が続いている中での撮影なので道路の水たまりはすべて海水だ。地元の方々は日常茶飯事のことのようで「そこに車を停めると潮が上がってくるよ!」と注意をされた。 自分としては過去に何度か経験した風景だが初めて見る方は衝撃の風景ではあるまいか? 住んでみないとわからないことがたくさんある、という一つの例だ。

入道雲のある風景

イメージ
 相変わらずローカルなことだが長門市三隅地区では夕立が来そうで来ない猛暑日が続いている。山の日の大雨で田圃が生き生きしてきたと思ったらまた干乾びた状態に戻ってきた。 そんな猛暑のなか、シェービングクリームのような入道雲が三隅を囲む山々から覗きだした。 鉄割山系、沢江の西山 岳ノ山 小波橋から天井山(左)と足河内山(右) 小波橋から権現山 権現山拡大 扇山 入道雲を見るたびに昭和の時代にあった剃刀?のCMを思い出す。覚えている方もいるはずだが入道雲を手でつかんでシェービングクリームにして髭をそるCMだ。記憶を確かめるためもう一度見てみたいものだ。(Youtubeで探してはみたが見つからなかった。またまた記憶ミスか?)