赤間関街道北道筋のこと~その2

萩より奥玉江を抜け、三見市(さんみ・いち)へと続く旧街道は文化庁の登録有形文化財である「三見橋」を左に過ごして床並集落へ向かう。
ほぼ現在の国道191号と並走しているが谷が深いため国道からはほとんど確認できない。

地理院地形図より
 その三見橋(通称、三見めがね橋)へ国道から入っていく。
2019年09月26日撮影-1

2019年09月26日撮影-2

2019年09月26日撮影-3
 見事なアーチ橋だ。
2019年09月26日撮影-4

2019年09月26日撮影-5

2019年09月26日撮影-6

2019年09月26日撮影-7
 読みづらいので以下、テキスト化してみた。

三見橋、通称眼鏡橋について
三見橋は、萩市の西部三見床並地区を流れる三見川に架かっている。藩政時代の赤間関街道北道筋の三見地区の経済発展のため、交通の便を向上させる必要があり、これらの難所を改善するため、明治二十三年に県道萩・小串線の鎖板峠三隅七曲間は、交通の難所であったので、当時県議会では、山陰地方の第二十三号仮定県道の改修に着手し、三見村内は同二十六年に完工した。
この時床並梅の木の三見川に架けられた道路橋の土橋を大正三年(1914年)に、径間五十四尺(16.4m)の石造のアーチ橋(眼鏡橋)に改築された。
江戸時代、中国より伝来したという石橋としての眼鏡橋は、九州地方には多いが、山口県下では数少ない大型石造の眼鏡橋で、建造年代は新しいがたいへん珍しい橋の一つである。
伝承によると、この橋造りは船で運んできたものを、浦より運び上げ、住民が手間に借りだされた。
石裏の「メジ」には、赤土と石灰を沢山練り詰め込まれた。完成後、アーチ部の木枠を取り外す際にアーチ石が崩れるのではないかと死ぬ覚悟で酒を呑んで作業にあたったとの事。当時では珍しい工法であった事がうかがえる。
県道萩小串線は、旧藩時代から主要幹線の役割を果たしており、三見市は当時の宿駅で交通の要路であった。
明治二十三年以降、漸次改修が行われ、昭和二十五年に、益田市と下関市とを結ぶ二級国道一九一号に昇格した。
その後、昭和三十八年には、南側の山をえぐり、現在の国道一九一号が新設された。そのため旧国道は市道(三見市鎖峠線)となり、現在は、床並地区の住民の生活道として機能しています。
三見橋は今なお、きれいな半円型のアーチを形成し、その外輪は滑らかな曲線となっている。

2019年10月06日撮影-1


2019年10月06日撮影-2

上の写真の部分拡大

この先、街道は床並集落を過ぎて難所の鎖板峠(通称、鎖峠)より三隅の宗頭へと下っていく。
鎖板峠(くさりいただお)のことは先月に書き込んだ「萩と三隅を結ぶ隧道」と絡んでくる。

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