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三隅・長門道路の整備が始まる前に

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 山陰道の一部を担う三隅・長門道路の建設予定地の近隣となる中村熊野権現社付近の今の風景を残す。 熊野権現社参道から大竹方面 熊野権現社参道から南側 現、萩・三隅道路の三隅トンネル方面 大竹から熊野権現社方面 建設予定地から将来を想像するとこれらの場所はそれぞれ地形が大きく変わると思われる。美しい田園風景がどのように変わっていくのだろうか。 熊野権現社 一ノ鳥居 [後記] 大正十三年十一月三日に正明市駅から長門三隅駅まで 美禰線 が延伸されその後三見、萩へと延びて行った。 萩・三隅道路 が平成二十年に三隅・明石間、平成二十三年に明石・萩間が開通し山陰道の一部としてその役割を担ってきた。その萩・三隅道路の三隅インターチェンジから俵山道路の長門湯本温泉インターチェンジの約10Kmの間が今年度に 三隅・長門道路 として新たに着工されようとしている。 ローカルエリアの輸送体系が鉄道から自動車道へとほぼ移行されようとしているが鉄路が廃れていくのは何とも寂しい限りだ。物流としては大型のものは鉄道で、そして小型のものは道路で、というような共存の体系は存在しえないのか、というような思いがめぐる。

いこいの森に秋の気配

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 いこいの森の夫婦岩(211.2m)西側登山道(階段)の整備が先日完了した。 整備された階段 整備の日から印象的だったのがキノコの顔ぶれだ。とくに下の写真のタマゴタケ?はきれいで美味しそう。(たぶんタマゴタケだと思う。) 下の写真はシロオニタケ?かも。いかにも毒々しいがきれいだ。 眺める風景も秋っぽく見える。 紫津浦方面 野波瀬漁港 幸島~通方面 大島、相島方面 大日比方面 今岬方面 樹々の色は夏だが空は秋を感じられる。 山歩きにいい季節になってきた。

秋祭り

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秋雨前線の影響で曇ったり晴れたりの中、三隅八幡宮で秋季例大祭が催された。雨雲が避けてくれたように晴れ間も広がった。 兎渡谷の神楽舞が奉納された。 「天涯」という舞を初めて見た。間近で見ないとこの迫力は伝えられないと思う。よき御神楽だった。

野波瀬から見る通小学校

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 青海島のほぼ東端に位置する通(かよい)は野波瀬漁港の真北にあたり、シンボリックな通小学校の体育館の屋根(オレンジ色の屋根)が目立つためすぐに確認できる。野波瀬漁港からおよそ4Kmの距離程。 通小学校のすぐ東側には「日露兵士の墓碑」が残されているのだが今となては2016年12月の日露首脳会談が特に思い起こされる。 同じく野波瀬漁港からすぐ沖合の幸島(こうじま)を眺める。 幸島の西端をズームすると釣りデッキが見える。 うねりでデッキが浮き沈みを繰り返していてずーっと見ていると船酔いの気分になる。 少しだけ波立った仙崎湾の風景。

稲刈り寸前

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 秋晴れに稲穂が実った風景を撮影しようと機を待っていたところ、通りすがりの横目にはまさに刈入れの真っ最中。慌ててスマホで撮影した次第。 三隅下地区は刈入れが上地区よりもう少し遅かったと勝手に思っていたが熱帯低気圧の影響で早まったのか、猛暑日が続いた影響かわからないが例年より早いように感じる。 九月にはなったが暑すぎて気分は八月のままで、稲刈りのことまで気が回らなかった。そして二学期が始まったことさえ忘れていた。

伊藤博文旧宅にて

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 萩市の松陰神社は何度か訪れたがすぐ近くの伊藤博文旧宅は初めて訪れた。当然のこと?ながら旧宅傍に別邸があることも初めて知った。 旧宅 別邸 別邸は現・東京都品川区大井町に明治40年頃に建設された邸宅からその一部を運んで新たにこの地に建築されたものとのこと。知らないことだらけだった。 (建設された時代が違うので博文公はこの別邸には住まれていない。) 移築元の東京の邸宅はたぶん現在の「伊藤博文公・墓所」にあったものと推測するが、東海道新幹線の品川駅を出発してすぐのJR西大井駅の近くでこちらも訪れたこともない。 旧宅の駐車場から眺めた田床山の風貌。博文公も眺めたに違いない風景だ。 [後記] 伊藤博文は天保年代に旧熊毛郡(現・光市)に生まれ9歳の時に萩市に移住して来ている。十九歳で桂小五郎と江戸へ向かっているので最低10年間は萩で暮らしたことになる。旧宅を拝見する限りは質素な生活だったように偲ばれる。博文(当時は伊藤俊輔?)が江戸へ出た3年後の文久二年に高知では牧野富太郎が生まれている。「らんまん」のストーリーが始まる。何の接点もないが二人は同時代を生きていたわけで想像するだけでわくわくする。日本が想像を超えて激動する時代だ。

久原山山頂のこと

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 久原山の登山コースがスマートフォンアプリの「YAMAP」に追加されて以来、少しづつではあるが長門市外よりの登山者が増えてきているように見受ける。その YAMAPの活動記録 を拝見するとほとんどの方が山頂が二つあることに気付かれていて、地元でいう山頂(案内板やパンフレット)と、YAMAPの地図(本来は国土地理院地図)の 山頂の位置が違う ため困惑されている記述が目立つ。 地理院地形図より 赤い枠線と赤い文字は勝手に追記したものだが昭和の時代(後半)より地理院地図は北側の標高点を打った位置に「久原山」と記されている。ところが地元三隅町民は過去より赤い文字の南側の地点を久原山山頂としてきた。 「防長山野へのいざない」を拝見すると北峰、中峰、南峰のような表現が見当たるが決め手となる記述に辿り着かない。 さらに歴史を遡るため「防長風土注進案」も漁ったが山頂の手掛かりとなる記述が見れず。 三隅町で言われる山頂の風景 時代は平成になって三隅町が御来光登山を企画したときにこの南峰山頂の雑木が伐採されたが、それ以前から明倫小学校の遠足?登山でここに登っていた。当時は植林のおかげか「はげ山」で真下の町役場の建屋などが見えていた。 いよいよ決め手がないので「山頂」の定義である標高を地点ごとにスマートフォンのGPS機能を利用してアプリで測定してみる。 測定誤差は在ろうもののやはり山頂(標高の一番高いところ)は祠のある南峰で、北峰や中峰はやや低い。 久原山は三角点がないので国土地理院が三隅町の地籍調査用の図根三角点を目途に 標高点 を入れたのか、先に地理院が標高点を入れたから三隅町が地籍図根三角点を植えたのかがはっきりしないがGPS測定からすると現状の地形図の山名と標高点は位置が違っているとしか思えない。 先だっても二条窪と真木を結ぶ峠の名称が違っていることがあって、地形図の修正ができたこともあったのでこのことも市に相談を上げてみようかと思う。 似たような記述を以前にも上げたがYAMAPの利用者のためだけでなく地元のためにも何とかせねば、と思い再度書き込む。