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6月, 2021の投稿を表示しています

山でシカが鳴く

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 山歩きをしていてよくシカの鳴き声を聞くが、最近家のすぐ前の山から毎朝のようにシカの鳴き声を聞く。それも近くに居るようで大きな鳴き声がする。とっても大きな声で「ピィー」と鳴く。 これまでこのような経験がないため、異変が起きているかのように思ってしまう。昨年の夏に杉山(三隅上地区の山間部)を歩いていて突然目の前に現れたシカのことを思い出した。目が合った後にしばらくしてゆっくりと山に登って行った。何度もこちらを振り返りながらゆっくりと去って行った。一切鳴くことはなかった。 2020年08月30日撮影 杉山川の橋を渡ってすぐのことだった。 2020年08月30日撮影 上の写真の部分拡大 立派なオス鹿でシャッターを切っても動じない奴だった。これ以上お互いに近づいてはいけないという緊張感が伝わったかのようにしばらく見合っていた。 山歩きをしていてよくシカの群れ(4~5頭)と出くわすが、こちらの気配を感じると警戒の鳴き声を発生して、先に逃げ去ってしまうことがたいていだ。このような一頭のオスと出くわすことはあまり経験がないためちょっと興奮した。威風堂々って感じか!

火の見櫓のこと

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 先日、豊原コミュニティセンターの前に在った火の見櫓(ひのみやぐら)が撤去された。無くなったことを聞いたのが突然だったのでびっくりした。 2019年01月19日撮影 2019年01月30日撮影 2020年01月07日撮影 上の3枚の写真は櫓が在りし日の風景だが、やぐら基礎部の説明書きプレートを撮影した写真を紛失してしまって詳細が思い出せない。 この写真に写っている櫓はそんなに劣化したものには見えなかったが基礎部は昭和30年代初頭のものだったように記憶している。その昔はサイレンがあったか半鐘があったかまでは記憶にないが櫓の隣に砂場と高鉄棒があったことは覚えている。今のブランコのある辺りだ。 2021年06月23日撮影 この鉄塔タイプの火の見櫓は昭和30年代から40年代にかけて全国で建設されていったと聞いたことがある。起源はたぶん江戸時代であろうが町の風景と同化したこの櫓は電信柱などより愛着がわく。現代は携帯というよりスマホのための鉄塔(中継器やアンテナ)が目につくがすでに町の風景と同化しつつある。 [後記] 櫓だけでなく隣の「くまの」さんも建屋が無くなっている。現地を見てびっくりだ。移転されたのであろうか、もしやめられたのなら巻きずしファンの私は残念だ。

宮峠のこと

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 現在国道191号三隅バイパスの豊原トンネル辺りに「宮峠」という峠があった(今でも残っているのか?)ことを知った。 2021年06月21日撮影 現在の地形図では線引きが無いため、30年前の地形図を引っ張り出してみた。 平成2年(1990年)発行の地形図 確かに三隅バイパスの延長線上に道らしき線引きがある。多分現在の豊原第2踏切に向かう道だと思われる。 この「宮峠」という名前に興味がわいたのだが「宮」と言うからにはお宮(豊原神社への参道?)が在ったのか、それとも 豊原3社 (大歳社、住吉社、荒神社)のことかわからない。三隅八幡宮と古八幡宮を行き来したとも考えづらいし東側の 新宮山 の名前に関連した峠と考えたほうが妥当か? [後記] 暮らしている町の中で、そしてこんなに近くのことがわからない。バイパス建設や土地開発によって地形が変わってきている。それに加えて市町村合併が進むと地図から消え去っていくものが増えてくる。賛否は別として興味を持った人々に手軽に伝承できる手立てはないものか、と考えてしまった。

三隅の祠とお地蔵様~豊原住吉社

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 豊原片川の旧井上家の在った上の山中に小さな社が祀られている。 豊原三社の一つで慈眼寺が在ったとされる「住吉社」らしい。 2021年06月20日撮影 2021年06月20日撮影 社の中には小さな石仏や五輪塔が残されている。 社の建立は不明であるが灯籠にははっきりとは読めないが文化七年庚午正月吉日とある。200年以上前のことだ。 2021年06月20日撮影 旧・井上家跡 2021年06月20日撮影 2021年06月20日撮影 住吉社跡の南側にも上の写真のような五輪塔がある。あくまで想像ではあるが「淫祠解除令」によって追いやられた祠等が住吉社から少し離れた場所に隠し祀られたものではなかろうか?と想像をめぐらす。 当時の民衆の力強い気配を感じられる。 [参考] 豊原三社とは 河内・・・大歳社(現、笠森様) 慈眼・・・住吉社 向山・・・荒神社 とのこと。 (豊原のあゆみ より)

三隅の祠とお地蔵様~豊原墓地東側の六地蔵様

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 豊原墓地の西側の六地蔵様は以前に書き残したが墓地の東側の参道にも六地蔵様がいらっしゃる。西側の六地蔵様は現長門三隅駅前辺りに在ったものを墓地の移転(長門三隅駅ができるため)と共に引っ越されたもので今回の東側の六地蔵様も時を同じく大正末期に東側の参道に鎮座された。 2021年06月20日撮影 2021年06月20日撮影 撮った後になって気づいたのだが赤いおべべは当初コカ・コーラのロゴかと思いきや広島東洋カープの「Carp」ロゴのようだ。なんともおしゃれなおべべを纏っていらっしゃる。素敵な方がお世話をされている様子が伺える。 2021年06月20日撮影 六地蔵様を拝んで参道を進むと墓地の丘陵に着く。そこから眺める景色は悠久の時を感じる。 目前の山陰本線は大正13年に正明市驛から美祢線として延伸された。小島の向こうには青海島の高山が観えている。

湧水のアジサイ

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 今の時季アジサイ(紫陽花)が目につく。色々と「画」になる風景を探すが中々切り取る場所や良き時間に巡り合わない。それだけの目的で探せばたくさんあろうがついでに撮るようないいかげんさではやはり巡り合えない。 2021年06月03日撮影 2021年06月03日撮影 2021年06月12日撮影 2021年06月12日撮影 2021年06月12日撮影 2021年06月13日撮影 2021年06月13日撮影 2021年06月13日撮影 2021年06月13日撮影 辿り着いたのが半田弁天池のアジサイで、背景を森林にして撮影できることが何より良かった。お水が美味しいだけあって葉や花も美しく感じる。 「一切れ一銭といふ 水瓜したたる  住めば住まれる 筧の水はあふれる ほんにうまい水がある 注連張ってある」 と詠んだ山頭火が八代盆地に着いたのは昭和8年8月9日とある。暑い夏に飲むここの湧水は本当に美味い。

初夏の八丁水路

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 昭和41年に完成した広田~豊原~平野の八丁水路は今の季節には水量豊かで生き生きした様子が見られる。 2021年06月16日撮影 ここ豊原の水門には今の時季にはハヤの滝登り?が見れる。これは上流を目指そうとしたハヤなのか、誤って落ちてしまったハヤが戻ろうとしているのかわからないが、水門を閉じられると落ちてしまったハヤは干からびるか野鳥のエサになるかを待つのみとなる。魚も生死をかけて遡っている。 2021年06月16日撮影 水門の上方は溢れんばかりの水量が流れる。ハヤやウグイ、コブナ、ドンコ、たまにオイカワなどが今後見られるようになる。 2021年06月16日撮影 冬場には全く生息が感じられないこの水路は初夏になると突然と淡水魚の宝庫となる。水量豊かなこの水路は二条窪川の水系と思いきやそれとは立体交差?しており、複雑な水路で構成されている様子。三隅川本流の分水とは思えないがここに生息する淡水魚たちは何処からやってくるのであろうか。 2021年06月16日撮影 三隅川と合流する手前はこのように二条窪川と並列している。この水路の源も掴めない。足河内(あしごうち)山系か、それとも地下水系から来るのか未だに分からない。三隅総合運動公園辺りからやってきている感じもするが途中の暗渠等で線引きが出来ない。そして天井山系と関わっていると心配事が増える。もっと調査が必要かもしれない。 (行政の河川担当者に聞けばすぐに判るのであろうが、淡水魚のことも絡むのでしばらくは自分なりに調査してみたい。)

久原山トレッキングの向山コース

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 以前より何度か書き残してきた「 久原山トレック 」は未だに「案」の状態ではあるが少しづつ実現化してきている。 この「登山」と言うより「山歩き」の向山ルート上に ヤマモモの木 が結構な数ほど見られる。 13株のヤマモモ 上の写真は当初マテバシイではないか、とカン違いした木だが足元(ルート上)にヤマモモの実がたくさん落ちていたので間違いが分かった。 そしてこの大木の上の尾根を進むと・・・ 2021年06月13日撮影 2021年06月13日撮影 2021年06月13日撮影 2021年06月13日撮影 このようにトレッキングコース上に結構ヤマモモの木が見られる。 これはコース名を「 向山ヤマモモコース 」と名付けても良さそうな素敵な尾根ルートだ。 そして久原山頂上(図根三角点の位置とは違う)はというと・・・ 2021年06月13日撮影 2021年06月13日撮影 このように山頂にヤマモモの大木が立っている。 現在、修景のための伐採箇所もコース上にピックアップし、少しづつ前に進んでいるので山歩きの好きな方は一度は歩いてみてほしい。と言いながら「ハイキングコース」ではなく「登山」のコースなので険しい箇所もあります。それなりの準備が必要です。

おつかれさま5時です

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 生活空間にテレビの無い生活をしていた昭和51年から59年までの約8年間はラジオだけで過ごしていた。学生時代から就職してしばらくのことだが実家に帰省した時のみテレビを見ていた。つまりこの期間はメディアの映像記憶がほとんどない耳からの情報だけで生活していた。 (単にテレビを買う余裕がなかっただけ。) SONYのラジカセ そんな生活がスタートした昭和51年(1976年)3月のこと、初めて一人で暮らし始めて下宿へ帰ってきた夕刻のラジオ番組のこと。 「 おつかれさま若山弦蔵です !」とスタートする TBSラジオ の「おつかれさま5時です」という番組だったかな?軽い時事や都内の交通情報など聞き流すにはもったいないほどの心地良い低音がラジオから流れだす。どんな方なのか何十年間も顔も知らずにいた「 若山弦蔵さん 」が先日亡くなられた。 すでに悼み偲ぶことしかできないが、当時の生活の色々なシーンが思い浮かぶ。それと同時に思い出したのが小沢昭一さんの「小沢昭一的こころ」や共同石油のラジオCM。同年代にこんな話してもなかなかチューニングできず、人それぞれの記憶や感性があるわけだが私にとって「若山弦蔵さん」の心地よいおしゃべりは外すことが出来ないアーカイブスの1ページだ。

権現山の調査

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 [権現山] 五六〇メートル、大平峠の上にあって字兎渡谷(とどろく)の背にあり、美祢郡秋芳町嘉萬(かま)と境している。 ・・・「三隅の歴史と民俗」より 以前より何度も書き残してきた「兎渡谷」と「権現山」のことだが、どうしても知りたい場所があり、先月末に再調査に行った。 それは又聞きではあるが「兎渡谷より神楽を納めるために登っていた登山道?の頂上手前に、 社が在ったような跡 がある」ということを聞いてしまい、どうしてもその遺跡?を見たいという衝動に駆られてしまった。 以前に何度か登っては探し回った辺りは地理院の現在の地形図で判断したもので、今回は 平成2年発行の30年以上前の地形図に基づいての調査 をしてみた。 (調査と言っても素人が単に歩き回るだけのもの) 2018年10月13日撮影 桂木山から観た権現山の稜線。神々しくそして美しい。 現在の地理院地図 上と下の地形図を比べてみると山道の谷ルートがかなり違っている。今回は不確実な山道をあてにできないので登山ルートはいつものとおり大水峠より権現山山頂を目指し、頂上から兎渡谷集落に向かうルートを下の地形図の楕円のエリアに絞って調査した。 平成2年発行の地理院地図 2018年12月31日桂木山より 2019年9月8日_権現山頂上 この頂上で1444年より1572年まで神楽舞を奉納していたと三隅八幡宮の文献に記されている。昔はたぶん日本海が見渡せたのであろう。 そして下の写真が現代の兎渡谷神楽の奉納の様子。 2019年9月16日_三隅八幡宮にて奉納 2019年9月16日_三隅八幡宮にて奉納 そして今回発見した社の跡地の様相を感じられる場所が下の四枚の写真。 2021年05月30日撮影 2021年05月30日撮影 2021年05月30日撮影 2021年05月30日撮影 ひょっとしてこの地にて神事を行い、その後頂上で舞っていたのか?と思うと数々の妄想が湧き出してきた。古の人々の気配を感じてその生活を想像すると感慨深い。 帰りはもう一度この場所から頂上を目指しヘトヘトとなり、古人のたくましさを感じた。 2021年05月30日撮影 そして大水峠へと引き返し峠のお地蔵様にご挨拶をして無事下山した。 仮に場所が違っていても大変満足な山歩きとなった。