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夜明けの虹

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すっかりと秋らしい肌寒い朝、西の空に虹が架かった。 2019年10月15日撮影-1 2019年10月15日撮影-2 見えたのは夜明けの頃だけであった。 豊原から三隅川を跨いで小島にかけて架かっているように見えた。 しかしこの虹は近寄っていくとどんどん逃げていくし、見る場所によっても位置が違う。 曇天の虹もわるくはない。

昭和39年のオリンピック

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自分の中で昭和39年の東京オリンピックは、当然白黒のテレビでしか知らないのだが、なんといっても強烈に覚えているのが陸上男子100mの ボブ・ヘイズ 選手だ。アメリカ代表のこの選手は白黒テレビで見ても筋肉(筋骨)隆々が解かって、予選、決勝とワクワクして見た。(ひょっとしてニュースの録画で見たのかも?) 当時我が家に住み込みで働いていたにーちゃんが、後になってボブ・ヘイズの解説をしてくれたことが余計に記憶に残っている原因なのだが、しきりに「黒い弾丸!」と言っていたのを思い出す。そして「絶対にこいつが金メダルじゃー」と喚いていたことも懐かしく思える。 ゴール・シーン どこかで見つけたヘイズ選手のゴールの場面だが、タイムを測定する方々の整列がちょっと可笑しい。とっても日本らしくって素晴らしい。 この時から黒人選手は足が速い(本当は「走るのが速い」)という先入観を持ち始めた。今も満更違っていないように思う。 あと、東京オリンピックで特に記憶に残っているのが チャスラフスカ さんだ。チェコスロバキアという国の名前を知ったのもプラハという街の名前を知ったのもこの時だったように思う。 当時の世界情勢も分からずにテレビで見ていた東京オリンピックは「世界は広い!」の一言で、テレビの海外ドラマ程度しか知らない外国の人はみな恰好が良かった。 「名犬ラッシー」や「奥様は魔女」などでしか知らない人々が自分の中では「外人さん」であった。その観念を破壊したのも「東京オリンピック」だったように思う。

そこは青い空だった

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初めて聴いたのが昭和39年(1964年)の間もなく東京オリンピックが開催される頃だった。 白黒のテレビから流れてくる「♪ 夢のジェット機 セブン・ツー・セブン ♪」という歌詞が頭にこびりついて離れない。 誰が歌っているのかも知らないで、ずーと口ずさんでいた時期を思い出す。 少し年月が経って中学生になった頃だったと記憶しているが、父親か、叔父かのどちらかがEPレコードを持っていて、それを聴いて口ずさんでいた曲の正体を知った。 橋幸夫・吉永小百合によるデュエット曲「 そこは青い空だった 」という曲だった。(そのレコードが無いのが残念!) 今思えば昭和39年に 海外旅行の自由化 が実施され、それまでプロペラ機ばかりの旅客機が ボーイング727 というジェット機に変わってきた。当時は国内線だけの 全日空 が採用をして、本当に「夢のジェット機」で自分はたぶん乗ることは無いだろう、思っていた。 2011年02月22日撮影-1  それから半世紀近く時が経って当時のデザインの旅客機に乗った。 2011年02月22日撮影-2 機種は違う?ものの何とも懐かしいデザインの飛行機だ。これは狙って乗ったわけではなく、予約した便が偶々このデザインで運行されたものだった。(東京羽田空港→山口宇部空港) 1ドル=360円の円固定相場制であった時代でありながら、次の年の昭和40年には日本航空から日本初の海外旅行パッケージツアーの「ジャル・パック」が登場し、海外旅行への垣根がどんどん低下していった。 しかし三隅町に住んでいる自分にはあまりに遠い夢の世界の事だった。 東海道新幹線も遠いし、羽田空港も遠い。すべてがよその国の事の様だった。 この昭和39年には白黒の思い出しか残っていない「ひょっこりひょうたん島」が放送をスタートし、夕方5時45分からの15分間は必ずテレビの前にいた。(実際はカラー放送だったようだ。) だらだら書いても良くないので、この続きは後日にしよう。 [後記] 昭和39年の東京オリンピックの頃を思い出したのは先日の「体育の日」のことからで、調べてみると昭和41年に 東京オリンピックの開会式の日 (10月10日)が「体育の日」に決まったことに因む。 その9日前の昭和39年10月1日に東海道新幹線が営業を開始している。 ...

秋晴れ~野波瀬

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10月10日の午後、所用が済んでそのまま野波瀬まで海の様子を見に行った。ここで云う「海の様子」とは釣りの釣果のことだ。 釣り人は3名で私が遠くから見ている間には特に釣果が無かったように思ったが少し近寄ってみると、サビキをされている方がアジゴを何匹か上げておられた。 それよりも青空がきれいで景色を眺めてはシャッターを押した。 2019年10月10日撮影-1 2019年10月10日撮影-2 2019年10月10日撮影-3 2019年10月10日撮影-4 青海島に守られるように位置する野波瀬港は穏やかな浦漁港で、北長門海岸国定公園の一部となっている。 野波瀬と周辺の地形 ところで帰りしなに海面を見ると結構なサイズの魚がウヨウヨしているではないか! 2019年10月10日撮影-5 巨大なマイワシか、サバなのか、いや大アジ?なのか。 撮影はできなかったが割と良いサイズのクロ(メジナ)もチラリと見えた(浮いてきた)。 狩猟本能が芽生えてしまった。 今度のお休みは魚釣りに決定!・・・いや台風19号が・・・。

秋晴れ~権現山

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10月10日の朝だった。 早朝の未だ星が出ている時間に目が覚めた。風もなく辺りは真っ暗かと思いきやカーテンを開けるときれいな星空であった。オリオン座を見上げてボーっとしていると、台風19号の進路予想がテレビの画面に写された。年甲斐もなく星に願いを。「来ないでくれ!」 そんな日の午後に所用で出かけて、権現山があまりにきれいでわざわざ車を農道に止めてしばらく眺めた。 2019年10月10日撮影-1 2019年10月10日撮影-2 2019年10月10日撮影-3 これらの角度からは権現山の頂上は見えない(手前の503mピークが頂上の様に見えている)が、これもまた恰好が良い。下から観る風景としてはマイベストだ。 以前も書いたが権現山は「高尾山」とも呼ばれていた時代もあり、その尾根は旧三隅町と秋芳町の境を成している560.4mの秀峰である。 三隅から見ると兎渡谷集落や麓集落の背となる。

久原山から眺める三隅の町

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香月泰男画伯がこよなく愛した生家の裏山「久原山」から三隅の町を眺め、そして思う。 2019年05月29日撮影-1  三隅川河口、開作エリア、浅田、沢江を臨む。 手前が仙崎湾で白潟を挟んで向こう側が深川湾。 2019年05月29日撮影-2 天井山下の正楽寺扇状地を眺める。 2019年05月29日撮影-3 権現山~天井山の稜線の向こう側に桂木山山頂を眺める。 下から眺めるのと違った感情が生まれる。 「私は国より 家族のほうが大切だと思ふ」 と言わしめた家族と暮らした生家のある久原。その久原部落は今コスモスが満開だ。 2019年10月10日撮影-1 2019年10月10日撮影-2 今は久原地区のシンボルとなっている「香月建築設計事務所」の白い建物。すっかりと原風景の中に溶け込んでしまっている。 [後記] 今日は10月10日だ。カレンダーを見ても平日の木曜日。なぜ体育の日は変わってしまったのか?私たち?以上の世代は昭和39年が忘れられない。 ただ懐かしんでいるわけではないのだが「昭和39年(1964年)」はあまりに記憶に残っていることが多くて遣り過ごせないでいる。 次回、昭和39年から40年辺りのことを三隅に生まれ育った視点で書いてみようか?

仙崎の弁天島

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以前、兎渡谷の権現社の鳥居に「厳島社」と銘記されていることを書き込んだが、その元となる厳島社が仙崎の弁天島に祀られた厳島社らしい。 [以前の書込み] 天保十四年(1843年)に淫覗解除の時に 仙崎から「厳島社」を引地 し、権現社は相殿となった。 (仙崎の厳島社は、現在の弁天島に奉られている厳島社と思われる。) その「弁天島」を過去からの地形図で比べてみる。 2017年09月09日撮影 現在の地理院地形図 1994年?に完成した人工島により弁天島が陸続きとなった。 昭和56年10月30日発行 地理院地形図 上の地形図の仙崎拡大 昭和56年(1981年)には人工島がまだ仙崎湾に浮いているが、沖の堤防からつながっているようだ。 昭和17年10月05日発行の地形図 さらに前は完全に島となっている。 1992年(平成4年)10月に青海島観光基地(現在のセンザキッチンがある場所)がオープンして、その2年後(平成6年)に「 第14回全国 豊かな海づくり大会 」が 人工島をメイン会場 にして開催された。 この時に弁天島より稚魚や稚貝の放流行事がなされたようだ。 ちょっと前の事の様に思えたが四半世紀が経っていた。