そこは青い空だった

初めて聴いたのが昭和39年(1964年)の間もなく東京オリンピックが開催される頃だった。
白黒のテレビから流れてくる「♪夢のジェット機 セブン・ツー・セブン♪」という歌詞が頭にこびりついて離れない。
誰が歌っているのかも知らないで、ずーと口ずさんでいた時期を思い出す。

少し年月が経って中学生になった頃だったと記憶しているが、父親か、叔父かのどちらかがEPレコードを持っていて、それを聴いて口ずさんでいた曲の正体を知った。
橋幸夫・吉永小百合によるデュエット曲「そこは青い空だった」という曲だった。(そのレコードが無いのが残念!)

今思えば昭和39年に海外旅行の自由化が実施され、それまでプロペラ機ばかりの旅客機がボーイング727というジェット機に変わってきた。当時は国内線だけの全日空が採用をして、本当に「夢のジェット機」で自分はたぶん乗ることは無いだろう、思っていた。
2011年02月22日撮影-1
 それから半世紀近く時が経って当時のデザインの旅客機に乗った。

2011年02月22日撮影-2
機種は違う?ものの何とも懐かしいデザインの飛行機だ。これは狙って乗ったわけではなく、予約した便が偶々このデザインで運行されたものだった。(東京羽田空港→山口宇部空港)

1ドル=360円の円固定相場制であった時代でありながら、次の年の昭和40年には日本航空から日本初の海外旅行パッケージツアーの「ジャル・パック」が登場し、海外旅行への垣根がどんどん低下していった。
しかし三隅町に住んでいる自分にはあまりに遠い夢の世界の事だった。
東海道新幹線も遠いし、羽田空港も遠い。すべてがよその国の事の様だった。

この昭和39年には白黒の思い出しか残っていない「ひょっこりひょうたん島」が放送をスタートし、夕方5時45分からの15分間は必ずテレビの前にいた。(実際はカラー放送だったようだ。)

だらだら書いても良くないので、この続きは後日にしよう。

[後記]
昭和39年の東京オリンピックの頃を思い出したのは先日の「体育の日」のことからで、調べてみると昭和41年に東京オリンピックの開会式の日(10月10日)が「体育の日」に決まったことに因む。
その9日前の昭和39年10月1日に東海道新幹線が営業を開始している。
当時を振り返ってみると、こんな田舎の片隅でそのようなことを知ったのはすべてテレビのおかげで、新聞を読む習慣が無かった子供時代に、白黒であってもいかにテレビというメディアが影響力があったかがわかる。
個人的にはその2年後から祖父にもらったラジオの世界に没頭することになる。

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