兎渡谷の権現社と厳島社のこと

三隅地区の兎渡谷(とどろく)には10月13日に「兎渡谷権現祭」で奉納される「兎渡谷神楽」があり、古くは権現山の山頂で夜通し舞った、と云う記録が残されている。
(権現社が権現山山頂に在ったのは1444年~1572年の間と記録されている。時は室町時代のことである。)

昨年の秋に権現山山頂を訪れたときに権現社の名残があるか目線で追っては見たが素人目には判らなかった。
2018年11月04日撮影-1
 過去にはかなりの展望が出来たようだが今は雑木で全く見通しがきかない。
2018年11月04日撮影-2
ところで権現山山頂に在ったとされる「権現社」は、元々が谷口村(今の兎渡谷)の村中に在って人家に近く、あまりにも疎略だったため当時の大宮司(古屋権少輔成高)に、「汚わいの輩、社頭に入って神威を汚す、人家を離れて高山(高尾山、今の権現山のこと)に祭らば永くこの村を守護せん」とご神託があり、それに驚いて村人に諮ったところ、村の裏山である高尾山の頂に新しく地を相して祠を建て、1444年にこれを奉遷したとある。

地理院地形図より-1
 この「高尾山の頂」とされる場所が現在の権現山の山頂(560.4m)のことなのかどうか検証が必要だが、現状は兎渡谷部落から権現山山頂は見えない。兎渡谷地区から登ってみる必要がありそうだ。
2019年08月25日撮影-1
この権現社で祀られた神様は至極不浄を嫌われ、遠く山々を越えて沖なる海上を見はるかし、少しでも不浄な輩があるときは神烏を飛ばし海上低く舞い降ろし波間に羽ばたかせて大波を起し舟を破壊したとされる。

そこで一人の船頭が谷口村にやってきて、難儀この上ないことを告げ、神慮を伺ったところ対岸の地に宮地を選び「和海山」と改め、現在の地(下三軒屋)に遷宮した。1572年のこと。
やがて新宮に奉祀して神楽を奏していると、不思議なことに一匹の霊兎が現れ谷を飛び下り、遥か海を渡り村を超えて高尾山の奥深く消えていった、とされる伝承から「谷口村」が「兎渡谷村」と云うようになったと伝えられている。この兎渡谷には「磯地」、「塩入」、「船止」、「岩ケ淵」というような地名が残っている。この地まで海が入り込んでいたことを証しているようだ。

さらに天保十四年(1843年)に淫覗解除の時にあらためて仙崎から「厳島社」を引地し、権現社は相殿となった。
(仙崎の厳島社は、現在の弁天島に奉られている厳島社と思われる。)
地理院地形図より-2
先日、三隅地域づくり推進協議会主催の地域探訪に参加させていただき訪れたときの写真を残す。(楽しい探訪でした。)
カメラの電池容量が少なかったため、フラッシュなしの撮影となった。
2019年08月25日撮影-2

2019年08月25日撮影-3
 鳥居には「熊野権現宮」と記されている。


2019年08月25日撮影-4

2019年08月25日撮影-5

2019年08月25日撮影-6

2019年08月25日撮影-7
社の中だけはフラッシュを焚いた。



2019年08月25日撮影-8
 こちらの祠が相殿となった権現社に祀られていたものか?



2019年08月25日撮影-9

2019年08月25日撮影-10
遥か遠い昔のことながら神話じみた話は実に興味深く、なんとしてでもその当時の人々の気配を感じたく探訪してみたくなる。

参考文献: 「三隅町の神楽舞」、「三隅町の歴史と民俗」、他。

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