豊原の八丁水路
昭和14年(三隅村の時代)の大干ばつ(旱ばつ)によってわずかな水をめぐって争いが起きたと記録がある。
そして昭和29年の台風による大水害で、三隅川の井出はすべて流出したと記録されている。そこで三隅町はコンクリートによる井出の改修復旧工事を計画した。この工事を契機に用水路のコンクリート化が国や県の補助事業で進み、下沖田の灌漑用水路「八丁水路」は昭和41年に完成した。
八丁水路の完成記念碑「八丁和心」は上の写真のように元々水路上に建っていた。
今は「豊原地区農業集落排水処理場」の片隅に移動されている。
水路の「さし板」により管理されている。
八丁水路より岳ノ山(雨乞山)を眺める。
豊原や二条窪の部落民が干ばつ時に岳ノ山頂上で雨乞(千把焚)を行ったとされるためか、別名「雨乞山」と呼ばれている。
なんと過酷な雨乞であったことか。
そして昭和29年の台風による大水害で、三隅川の井出はすべて流出したと記録されている。そこで三隅町はコンクリートによる井出の改修復旧工事を計画した。この工事を契機に用水路のコンクリート化が国や県の補助事業で進み、下沖田の灌漑用水路「八丁水路」は昭和41年に完成した。
2003年01月25日撮影 |
2020年08月03日撮影-1 |
2020年08月03日撮影-2 |
2020年08月03日撮影-3 |
2020年08月03日撮影-4 |
2020年08月03日撮影-5 |
豊原や二条窪の部落民が干ばつ時に岳ノ山頂上で雨乞(千把焚)を行ったとされるためか、別名「雨乞山」と呼ばれている。
なんと過酷な雨乞であったことか。
[参考資料] 豊原のあゆみ(歴史と伝承)より
コメント
コメントを投稿