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疫神様の土俵

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野波瀬疫神社(通称:やくじんさま)で毎年12月の初めの丑の日に痘瘡守護の祭礼があり、神賑いとして「 みかん相撲 」が催されていた。 幼い頃にこの「みかん相撲」に無理やり出されるのが嫌でその日は逃げ回っていたことを覚えている。 2014年12月14日撮影-1 2014年12月14日撮影-2 2015年01月01日撮影 2015年01月13日撮影 少し前までは土俵があったのだが、何時だったか通りかかった時に土俵が無くなっていることに気がついた。 (その時期になると再度造るのか?) 2018年08月15日撮影 この「みかん相撲」というのは私にとっては後々聞いた言葉で、「やくじんさまの相撲大会」と言っていた。幼少の頃の記憶しかないのだが勝った者がみかん3個?、負けた者はみかん2個?を貰えるというだけの催しだった。 ご心配されている方々には申し訳ないが・・・ 大人たちが無理やり子供たちを連れてきて相撲をとらせるといったイメージしか持っていなかった。 (近年は違ってきているのかもしれない。) 民俗の慣わしであるお祭りや風習とはそういったものだろうが神前相撲というイメージはなかった。ただ、たくさんの人々が集まっていたのはよく覚えている。 椎の実拾いの季節は毎日のように「やくじん様」に来ていたことを思い出した。

2018年夏の深川湾

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今年の梅雨ごろに昨年の深川湾の写真をアップしたが、同じような位置で撮影した今年2018年の風景を残しておく。 2018年08月12日撮影-1 黄波戸と矢ヶ浦方面を見渡す。手前の平らな山?は境川の千畳敷だ。 2018年08月12日撮影-2 深川の街と妙見山方面を見渡す。やはり山陰本線が気になる。 2018年08月12日撮影-3 西側の風景はラーメン屋さんのオレンジ色の屋根が象徴的だ。 以前も書いたと思うがここを「特急まつかぜ号」が走っている姿を見たいものだ。それも食堂車付き(7両編成?だったような・・・)のものが最高だ。 2018年08月12日撮影-4 北側の青海島を眺望する。やはり海がきれいだ。 2018年08月12日撮影-5 妙見山の袂(たもと)は深川川(ふかわがわ)の河口となっており、30年前にはクロダイ(チヌ)の宝庫でよく釣りに来ていた。ときおりスズキの背びれが海面を横切っていたが今はどうなんだろうか? 昔(昭和後期)はこの辺りの海岸は沿岸整備がまだされていなかったため、風景としては今の方がきれいに見えるような気がする。 [後期] 深川川河口からこの辺りにかけて 松の木が連立 していた場所(防風林)なので「特急まつかぜ号」のイメージがいっそう郷愁を誘う。 「特急まつかぜ号」はその後「特急いそかぜ号」と名前を変えて山口県の山陰本線を走る唯一の特急列車として存在感をアピールしていたが2005年(平成17年)3月1日のダイヤ改正において姿を消してしまった。非電化区間を走る特急列車は本当に恰好が良かった。

カルストロードから観る桂木山

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先日「桂木山」のことを少し書き込んだが、その中で頂上から秋吉台の全景が眺望できたことを思い出して、反対に秋吉台から桂木山を眺めてみようと思いカルストロードを走ってみた。 2018年05月12日撮影 上の写真は3ヵ月前の桂木山山頂から観たカルストロード。  カルストロードの駐車スペースから見えた桂木山。 2018年08月12日撮影-1 猛暑日のカルスト台地は暑かった。 2018年08月12日撮影-2 2018年08月12日撮影-3 「カルストロード」という言い方は最近だろうと思うが、この道は1970年10月に「秋吉台有料道路」という名前で開通した。その後1990年に無料開放されて山口県の管理となった。現在は県道242?号線だ。 出来た頃には有料でありながらその絶景に魅せられてかなりの車やバイクが走っていたと思う。 この日も日曜日とお盆?が重なってたくさんの車がいた。上の写真は車のすき間を狙って撮ったが実際は賑わっていた。 40km制限の道をもっと遅い速度で走っても煽られないのは良い気分だった。

「いら」がでる!

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こどもの頃(小学生の頃)にお盆を過ぎると「いら」がでるから海に行ってはダメ!、とよく聞かされた。 (実際は「いらがでるからいっちゃーいけん」という) 確かにお盆の頃から 松島や室生 で泳ぐと「いら」に刺されて体に蚯蚓腫れ(みみずばれ)が出来ていた。 松島から観た二子岩と幸島。 2017年07月23日撮影-1  松島の岩場。 2017年07月23日撮影-2  キャンプ場の浦。 2017年07月23日撮影-3  室生の風景。 2017年07月23日撮影-4 ということでこの「いら」とはなんだ? クラゲの一種だろうとは思っていたが具体的に説明できないでいた。 そして中学生の頃、松島にて水中眼鏡ではっきりと見た。 たぶん「いら」の正体 こんな奴だった。10cm程度の半透明のクラゲだ。 さらにこの「いら」という名前だが、自分の中では勝手に三隅エリアの中でしか通用しない独特の名前だと思っていた。 ところが学生時代に九州出身の友人と話す中で、福岡や長崎でも「いら」と言っていて正体がよく解らないでいた、という話しを思い出した。 前々から北浦の言葉や文化は北九州に近いものが多いと感じていたが「いら」が通じるとは思いもしなかった。 玄界灘から対馬暖流に乗ってやってくるのだろうか?お盆を過ぎると現れる、というのが面白い。 2017年07月23日撮影-5 「お盆を過ぎると」で思い出すのが「ニナ」獲りだ。盆過ぎのニナは身がちょっと大きくて茹でて食べたりすると本当に美味い。 サザエやアワビよりおいしいと思っている。 いつか「ニナ」獲りのことも書き残しておこう。

桂木山の山頂から

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好きな山は下から眺めるのが好きだが、やはり頂上からもどこが観えるか確認したい。 ちなみに私は 「山歩き」 は登る途中(頂上を目指している行程)が一番楽しい。そして下山があまり好きではない。とっても疲れるし下手だ。だから下山途中に色々な寄り道をして楽しいことを見つける癖がついている。 今回は桂木山の山頂と山頂から見えた風景を残しておく。 2018年05月12日撮影-1 「北辰妙見」が祀ってある祠。 2018年05月12日撮影-2 2018年05月12日撮影-3 2018年05月12日撮影-4 2018年05月12日撮影-5 雨量観測?用の建屋だが、今から44年前の昭和49年1月に登頂した時にはすでに在った。誰が建てたのだろうか? そして建屋の中にはびっくりするものがあった。 2018年05月12日撮影-6 山歩きの楽しみの一つに、先人たちの残してくれたガイドだったり道標(テーピング等)、又は石積みの案内など色々の工夫を辿っていくことがある。そしてそれらを発見した時の喜びは大きい。残してくれたのがどんな方々なのかを想像するとワクワクする。 山頂(702m)から見る風景は以下のとおりだ。 2018年05月12日撮影-7 ガスがかかって見通しが悪かったが、下東方や仙崎湾がギリギリ見えた。琴橋を肉眼ではっきりと見たかったが残念! 2018年05月12日撮影-8 秋吉台の全景?が見渡せる。 次回は冬場の空気が澄みきった日に来てみようと思いながら下山。 ちょうど3か月前の単独行だったが、計画通りのルートで行動できたことが何より嬉しく楽しい山歩きだった。

桂木山に想いを馳せる

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本日は「 山の日 」に因み三隅を囲う山の一つであり、三隅川の源流を担っている「 桂木山 」のこと。 「山」本体は秋芳町に位置するが、その悠々たる姿や美しい輪郭は三隅や仙崎のあらゆる場所から見渡せる。山頂には北辰妙見が祀られる。 三隅を囲む山々の位置図 仙崎から眺める桂木山と周辺の山々 2017年06月02日撮影 下東方対岸から眺める桂木山 2017年12月15日撮影 上の2枚の写真は以前アップしたものを再度使用。 大水峠トンネル出口から眺める朝陽を浴びた桂木山。 2018年08月09日撮影 花尾山から眺める桂木山-1 2018年06月01日撮影 花尾山から眺める桂木山-2 2018年07月15日撮影 桂木山は周辺の山々のいろいろな場所から眺望できるが、それらの山の山頂から観る桂木山の姿の中で 「花尾山の山頂から眺望した桂木山」 がダントツに素晴らしい。 次回は桂木山の山頂と山頂からの風景を残すことにしよう。

真夏の夜に想う昔の新幹線のこと

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初めて新幹線に乗ったのは高校生の時の修学旅行だ。 (私たちの学年の修学旅行は、なぜか九州方面、四国方面、関西方面と3パーティーに分かれてお好きな所へどうぞ、という修学旅行だった。担任の先生からは「将来進学に関西や関東方面に行く気なら修学旅行は関西にしなさい」と言われたのをかすかに覚えている。なぜかというと新幹線の乗り方を覚えなさい、という意味だったらしい。当時の私たちの生活範囲は新幹線になじみのない別世界の乗り物だったような気がする。) 忘れもしない昭和49年(1974年)、まだ山陽新幹線が 新大阪から岡山まで しか走っていない時代のことだ。 山陽本線(在来線)の特急で岡山まで行き、そこから新大阪まで新幹線に乗った。 人生2度目の新幹線は翌年(昭和50年)のことだ。昭和50年3月に山陽新幹線が岡山から博多まで延びて全線開通した。その年の夏に小倉から京都まで乗車した。つまり京都ー新大阪間は生まれて初めての東海道新幹線の乗車になった。 1975年03月10日の博多駅 上の写真は山陽新幹線が開通した日の博多駅を出発する「ひかり100号」の資料写真。 確かこの頃の出来事だったように記憶しているが、新幹線に「 食堂車 」が出来た。それまでの東海道新幹線だけの時代は無かったように思うが東京から博多までの7時間近いひかり号の乗車時間には当時の国鉄は食堂車が必要と考えたらしく、テレビで見る限りは盛況だったように放送していた。 そして自分もその食堂車の初体験を昭和51年にした。 はじめて食べたひかり号の食堂車のメニューは「カレーライス」だった。当時の食堂車の調理は「帝国ホテル」だったように覚えているがその後は「日本食堂」が受け持ったと思う。 1977年8月の山陽新幹線小郡駅 食堂車の隣には「ビュッフェ」というサンドイッチが食べられる簡易喫茶があり、食堂車が満席の時や時間のない場合はそこでコーヒーを飲みながら煙草が吸えた。「ビュッフェ」の意味も知らずに口にしていたが自分にとってはおバカな楽しい時代だったように思う。 [後記] 山陽新幹線が開業した昭和50年は父親が亡くなった年で、世間知らずのおバカな高校生にとって色々な出来事が自分に降りかかってきた年でもあった。誰にでも人生の転機があろうがそれを迎えた時に手の届く位置に「新幹線」が出来...