真夏の夜に想う昔の新幹線のこと
初めて新幹線に乗ったのは高校生の時の修学旅行だ。
(私たちの学年の修学旅行は、なぜか九州方面、四国方面、関西方面と3パーティーに分かれてお好きな所へどうぞ、という修学旅行だった。担任の先生からは「将来進学に関西や関東方面に行く気なら修学旅行は関西にしなさい」と言われたのをかすかに覚えている。なぜかというと新幹線の乗り方を覚えなさい、という意味だったらしい。当時の私たちの生活範囲は新幹線になじみのない別世界の乗り物だったような気がする。)
忘れもしない昭和49年(1974年)、まだ山陽新幹線が新大阪から岡山までしか走っていない時代のことだ。
山陽本線(在来線)の特急で岡山まで行き、そこから新大阪まで新幹線に乗った。
人生2度目の新幹線は翌年(昭和50年)のことだ。昭和50年3月に山陽新幹線が岡山から博多まで延びて全線開通した。その年の夏に小倉から京都まで乗車した。つまり京都ー新大阪間は生まれて初めての東海道新幹線の乗車になった。
上の写真は山陽新幹線が開通した日の博多駅を出発する「ひかり100号」の資料写真。
確かこの頃の出来事だったように記憶しているが、新幹線に「食堂車」が出来た。それまでの東海道新幹線だけの時代は無かったように思うが東京から博多までの7時間近いひかり号の乗車時間には当時の国鉄は食堂車が必要と考えたらしく、テレビで見る限りは盛況だったように放送していた。
そして自分もその食堂車の初体験を昭和51年にした。
はじめて食べたひかり号の食堂車のメニューは「カレーライス」だった。当時の食堂車の調理は「帝国ホテル」だったように覚えているがその後は「日本食堂」が受け持ったと思う。
食堂車の隣には「ビュッフェ」というサンドイッチが食べられる簡易喫茶があり、食堂車が満席の時や時間のない場合はそこでコーヒーを飲みながら煙草が吸えた。「ビュッフェ」の意味も知らずに口にしていたが自分にとってはおバカな楽しい時代だったように思う。
[後記]
山陽新幹線が開業した昭和50年は父親が亡くなった年で、世間知らずのおバカな高校生にとって色々な出来事が自分に降りかかってきた年でもあった。誰にでも人生の転機があろうがそれを迎えた時に手の届く位置に「新幹線」が出来ていたことは今思うととてもありがたいことでもあった。自分の頭の中に東京ー山口ー博多というラインが引かれた。
毎日猛暑が続く寝苦しい夜に、40年以上前の記憶が蘇ってきた。そしてとりとめのない話になってしまった。
(私たちの学年の修学旅行は、なぜか九州方面、四国方面、関西方面と3パーティーに分かれてお好きな所へどうぞ、という修学旅行だった。担任の先生からは「将来進学に関西や関東方面に行く気なら修学旅行は関西にしなさい」と言われたのをかすかに覚えている。なぜかというと新幹線の乗り方を覚えなさい、という意味だったらしい。当時の私たちの生活範囲は新幹線になじみのない別世界の乗り物だったような気がする。)
忘れもしない昭和49年(1974年)、まだ山陽新幹線が新大阪から岡山までしか走っていない時代のことだ。
山陽本線(在来線)の特急で岡山まで行き、そこから新大阪まで新幹線に乗った。
人生2度目の新幹線は翌年(昭和50年)のことだ。昭和50年3月に山陽新幹線が岡山から博多まで延びて全線開通した。その年の夏に小倉から京都まで乗車した。つまり京都ー新大阪間は生まれて初めての東海道新幹線の乗車になった。
1975年03月10日の博多駅 |
確かこの頃の出来事だったように記憶しているが、新幹線に「食堂車」が出来た。それまでの東海道新幹線だけの時代は無かったように思うが東京から博多までの7時間近いひかり号の乗車時間には当時の国鉄は食堂車が必要と考えたらしく、テレビで見る限りは盛況だったように放送していた。
そして自分もその食堂車の初体験を昭和51年にした。
はじめて食べたひかり号の食堂車のメニューは「カレーライス」だった。当時の食堂車の調理は「帝国ホテル」だったように覚えているがその後は「日本食堂」が受け持ったと思う。
1977年8月の山陽新幹線小郡駅 |
食堂車の隣には「ビュッフェ」というサンドイッチが食べられる簡易喫茶があり、食堂車が満席の時や時間のない場合はそこでコーヒーを飲みながら煙草が吸えた。「ビュッフェ」の意味も知らずに口にしていたが自分にとってはおバカな楽しい時代だったように思う。
[後記]
山陽新幹線が開業した昭和50年は父親が亡くなった年で、世間知らずのおバカな高校生にとって色々な出来事が自分に降りかかってきた年でもあった。誰にでも人生の転機があろうがそれを迎えた時に手の届く位置に「新幹線」が出来ていたことは今思うととてもありがたいことでもあった。自分の頭の中に東京ー山口ー博多というラインが引かれた。
毎日猛暑が続く寝苦しい夜に、40年以上前の記憶が蘇ってきた。そしてとりとめのない話になってしまった。
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