神々しい権現山
確か1年前にアップした写真だと思うがもう一度載せることにした。
2019年08月13日撮影 |
2019年08月31日撮影 |
2019年09月21日撮影 |
2019年09月21日撮影 |
[兎渡谷厳島神社と神楽舞]
権現社といわれ、至徳元年(一三八四)に御祭神、端津姫命、市杵島姫命、田心姫命、の三座と速玉男命、事解男命を高尾山(現・権現山)に勧請し祀った。のち元亀三年( 一五七〇)に新宮に遷し神楽を奏じて通夜したところ霊兎が現われ、高尾山(現・権現山)へ渡るのをみて霊感を感じ、谷口村を兎渡谷村と言うようになった。神楽舞は毎年十月十三日夜奉納されている。舞の曲目は二十四、で山伏神楽を基本に石州神楽が入った里神楽で、神事舞、願舞、狂言舞、神楽の本来の形を持つ舞で滝坂神楽舞とは曲目の順位や名称が多少違い、太鼓も一調早い神楽舞である。
兎渡谷バス停前から三軒家横の山道(権現山の北側の山)をのぼり更に山水の流れる石ころ道をのぼること約八〇〇米、熊野権現宮の扁額のかゝつている鳥居が建っている。鳥居下より見上げるような急坂の立派な参道の石段が連なり一三五段を上りつめると兎渡谷権現社の社殿がある。このお社は三隅八幡宮の末社で御祭神は天照大神が御弟君の黔か噸尊の心の清明きことを誓約し給うた時に生れました神で、海上守護を司どられる湍津姫命、市杵島姫命、田心姫命の三座で相殿として速玉男命、事解男命がお祀りしてある。
「八幡宮並末社由来家普控」の中に書いてある「兎渡谷村大権現宮由来」に抑兎渡谷鎮守大権現と申し奉るは天神第七代伊弉諾尊、伊弉冊尊の御子にて速玉男尊。事解男尊の二神にて根元熊野三所大権現宮、同体の神也。頃は文安元年( 一四四四)大宮司従五位下古屋権少輔橘朝臣成重、高尾山へ勧請しけるとかや。此神陽神にまします故か高尾山より見下す海上東国北国の来船、若穢れ不浄の輩ある時は俄かに大風吹起り、神鳥飛び来りて羽根打ちければ忽ち海上逆浪たてて破船すること其の数を知らず。雑然、神変の波風故か更に人体を損せず、神鳥南面の高山に帰れば忽ち海上平波する也、爰に一人の船頭此の奇特を感じ此の山の麓に着船して谷口村に来り農夫五郎左工門が家に入り問うて云ふ。此の地に霊神はなきやと。農夫答えて云う。権現社あり。此の御神、往古人家の側に御座候ところ、汚穢不浄の輩、社頭に入りて我が神威を汚さん。人家を離れ高山に祭らば長く此の村の人民を守護せんと。文安元年に古屋権少輔殿へ神託あり。之より高山の峯に祭り御鎮座の由来を委しく物語る。頃は永禄三年( 一五六〇)庚申三月二日也。船頭委しく是を聞きて破船の次第をも互いに神威の巌かなるを恐れ、船頭中相語らい神慮を窺い奉り宮地を和海山と改め、壹間四面の祠を建立し玉殿を船に乗せ奉り元亀三年( 一五七〇)三月廿八日新宮に遷し奉り神楽を奏し通夜しけるに不思議なるかな霊兎現じて高尾山へ渡るをみる。時の人霊験を感じ谷口村を兎渡谷村と号すにつき、それより益々一村繁昌し海上風波の難もなし、其の頃郷中入海なり。今に滝坂村に碁石の浜と云ふ所あり。兎渡谷村に磯地、塩入、船止り。岩ケ淵など申しつぐ古名あればその證とすべし、此の社再建の時、京都吉田殿へ窺い、日本諸国神名帳に入り本府の御記録にも止まると委しく記して由来を社頭に納め奉る者也。
この様に創建は大変古く元亀三年に新宮に遷座して神楽を奏して通夜したのが舞の起源とされている。現在の社殿は昭和廿八年一月二日遷座しているが、以前の社殿は神殿、舞殿、拝殿があり神楽舞は薪能を思はせる囲炉裏の焚火と提灯の明りで夜を徹し幽玄の境に託宣の舞があったものである。
今の新社殿になってからは夕刻氏子が山の社殿に参集し御霊代を神輿に遷し、一三五の石段と山道を下り、又二年前からは御神幣のみで公会堂に奉じ、通夜して舞はれている。この舞の中に天蓋(諾冊二神の国生みと日の大神の御誕辰を表す舞)の幣の見事さ、まさに文化財的至芸とも云えるもので一枚の障子紙でお社、鳥居、王垣、石段が切り抜いてある。この由緒ある神楽舞をよい後継者共々、後世伝えられんことを願ってやまない。現存しているものに「鰐口」がある。神佛混交時代のもので神社の鈴にあたり、お詣りの時に打ち鳴らすもので大変貴重なものである。又、八幡宮元禄二年( 一六八九)八月十五日奉納通浦中の一対の石灯篭は氏神八幡宮を通じ、海上守護の神として奉納されている。 古屋正資
(以上、昭和58年 三隅町広報より抜粋)
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