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2月, 2021の投稿を表示しています

三隅の祠とお地蔵様~兎渡谷厳島社

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 昨年の10月に地元・兎渡谷自治会によって448年振りに遷座された「権現社」の跡地に今も残る祠がある。 (以下の写真は遷座前のもの。) 2019年11月22日撮影 2019年11月22日撮影 社が三隅八幡宮の末社である「兎渡谷権現社」、祠が「厳島社」であろう。 鳥居の扁額には「熊野権現宮」と刻まれている。 2019年11月22日撮影 2019年11月22日撮影 2019年11月22日撮影 写真は晩秋のものだが陽が射しこむとこんなに美しい霊森の風景となる。 後世にこのまま残したい素敵な場所だ。

湯免公園のこと

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 「湯免公園」といっても令和となった今となってはこの言い方をほとんど聞かなくなってきた。 昭和41年(1966年)に三隅町が湯免開発の一事業として湯免プールの東側の高台一帯にツツジやサクラなどを植樹し新設した公園で、その後平成5年(1993年)に香月泰男美術館が完成し、さらに翌年の湯免ふれあいセンターの完成と共に「ふれあい広場」という名前で呼ばれだした。 そのふれあい広場の一角の小山の上に「大師堂」がある。 2019年03月19日撮影 2019年03月19日撮影 この説明板に書かれた「長門市能満寺」は俵山郷にある。 2021年01月31日撮影 2021年01月31日撮影 2021年01月31日撮影 何時か訪れてみたいと思っていた場所だが先月末にその機会に出会えた。殆どチラ見で終わってしまったが、裏山の「能満寺山」に興味が湧いてしまった。 次回は山歩きとして訪れてみよう。

三隅の祠とお地蔵様~才ヶ垰辺り

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 祠(ほこら)がある地区の小名が不明なので近くの才ヶ垰をとって「才が垰辺り」とした。 山口県では「峠」を「たお」や「だお」と読むが「垰」と記された場合もそのように読むようだ。 場所としては二条窪の地内だが小山の斜面にあるため見落としそうだ。 偶然だがオーブが写りこんでいる。 「木霊」かな?とっても不思議だ。 近くに砂防ダムの建設現場があり、工事場所が「才ヶ垰地区」と標記してあるので”辺り”と表記したが実際の才が垰はもう少し南側だと思っている。ここの林道は足河内山を目指しその後に正楽寺か中村へと続くものだと思うが一度どこに辿り着けるか歩いてみたいと思う。才ヶ垰は二条窪より奥畑集落へと抜ける山道であろうと判断する。 小名が書かれた地図が欲しい。この歳になると視力低下に勝てず、文献や資料を読みだすことがつらい。若いころに気付いていれば、と思うがその後悔が歳を重ねる、と言うことであろうか。

山口大神宮から上る鴻ノ峰

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 山口県庁を西から見守るように聳える鴻ノ峰(338m)は山口大神宮が登山口の一つとなっている。 2021年02月21日撮影 2021年02月21日撮影 2021年02月21日撮影 2021年02月21日撮影 2021年02月21日撮影 2021年02月21日撮影 頂上の高峰城跡。 2021年02月21日撮影 三角点は標高260m辺りに在る。 鴻ノ峰は小さな低山だが瑠璃光寺から大蔵山、古堂山、古城ケ岳を周って縦走するルートがある。その縦走ルートが最近整備されたと聞く。 下山途中にこんなものを見つけた。 2021年02月21日撮影 下山途中に見つけた野生のシイタケ。野生のものは初めて見た。 ちょっと野太くてカッコいいやつだ。

郵便事業創業から150周年らしい

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 ここ近年似たようなことを毎年書いているような気がするが今年の「お年玉切手シート」はと言うと・・・ 令和三年のデザイン デザインのことは全くの素人だが、なんか無粋で安っぽいイメージがする。思っていることをうまく表現できないが外国の人が日本をイメージして作った感が捨てきれない。 (Carter Security Printingはフランスの切手印刷会社らしい。) 年賀切手はなんでこんな風になってしまったのだろうか? 大蔵省印刷局製造から財務省印刷局製造に、そして国立印刷局製造と移り変わってきたことは知っていたが外国の民間印刷会社に委託するのはなぜなのだろうか? ましてや今年は郵便事業発足から150周年の区切りの年であるとの事。 もっと頑固さがほしい事業だと思うが民営化した結果としてか、あきらめざるを得ない。何時の頃からか切手が安っぽく思えてきた。「切手」は自国で製造印刷してほしい。 今年はお年玉切手シートが1枚だけ当たった。100本に3本当たる確率だがなかなかそうはいかないのが籤だ。そしてまた来年も同じことを書きそうだ。

寒波の地蔵崎から

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 野波瀬浦の西に地蔵崎と言うエリアがある。詳細は過去に書き込んだことがあるのだが、昭和の頃と随分と風景が変わってきた。 その地蔵崎の堤防に雪の日に立ってみると強烈に寒い。正面の通から波しぶきが頬を叩く。時折霰のような痛さが伝わってくる。 2021年02月18日撮影 2021年02月18日撮影 2021年02月18日撮影 2021年02月18日撮影 今回の寒波の雪は前回と違って雪質がふんわりでさらさらしている。気温も0度前後だ。 山間部では山の樹木に被さった雪がとってもきれいに見えたが、ここ野波瀬はそうではなかった。寒い! 前回の寒波のように断水にならないことを祈って引き上げた。

三隅の祠とお地蔵様~三隅山荘

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 三隅山荘とは村田清風の旧宅のことである。 母屋の南側の垣根傍にひっそりと祠がある。 2018年02月16日撮影 三隅町広報の資料等で調べはしたが、祭祀となっている対象が見つからず、何の祠なのか分からなかった。 比較的新しい祠に見えるが傍の五輪塔?のような石積みも正体不明だ。 判明したら書き残しておこうと思っている。 この旧宅の創建は天明二年(1782年)とあるが、確かな資料はなく不明であると沿革説明にあった。その頃からの祠ではないように思えるが。 2018年02月16日撮影 この日、祠の傍から茅葺の母屋と紅梅を一カットで撮れた。 いかにもな風景だが三年前の今時分だ。

三隅の祠とお地蔵様~津雲

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 県道64号萩三隅線の地蔵坂(地蔵峠)に、最近山から下りていただいたお地蔵様がいらっしゃる。山から下りた、と言ってもすぐ上の杉の木の傍からなのだがとっても可愛いお地蔵さまだ。 (この上のお地蔵様がいらっしゃった位置が元々の道の高さだったのだろうと思われる。) 昔より道が下がっていることがわかる。 このお地蔵さまは峠にあるから厄除け道祖神であると思いきや地元で話を聞くと、村の婚礼のときに披露宴会場でこのお地蔵様を4人で担ぎ、お賽銭?を集めて周るそうだ。そういえば昔そのような披露宴を見た(出席した?)ことがあることを思い出した。 ここ地蔵峠にはもう一つ碑(いしぶみ)のようなものがある。 地元では俗称「河童の墓」と言われており、 河童塚(えんこづか) とも伝えられる。日当たりが悪い地区で冷田と呼ばれる寂しい場所だったようだ。祀られた当初は先ほどのお地蔵様の真向かいにあったそうだ。 そして津雲にはもう一つお地蔵様?がいらっしゃる。 こちらは津雲の生島側でお墓の高台にいらっしゃる。厄除けの道祖神なのかどうかは分からなかったが小さなお地蔵さまだ。

スギ花粉の中

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 一昨日から少し寒さが緩み、それと同時に強烈に目がかゆくなってきた。 杉の木を見ると杉の実が真っ赤に膨れている。花粉症の自分から見ると怪物のように見える。 2021年02月14日撮影 背景は中村の熊野権現社の山(枯れたイチョウの樹の辺り)と、澄み切ったように見える空に虹が架かった風景。右に写っている奴が赤茶けた実を膨らませた杉の木だ。 車のボンネットの上は薄黄色の花粉が積もり、塗装色が変わるほどだ。 2021年02月14日撮影 東の空を見ると冬の晴れた日の風景に見えるが、やはり花粉の飛沫で少し霞んでいる。 三隅八幡宮と高砂(一番右の山)をワンカットに入れようとして引いて撮影したもの。真ん中あたりに萩・三隅道路の三隅トンネルが見える。 こんな悠長なことをしているが、昨夜の福島沖の地震が気にかかる。夜が明けて色々な実態が判明してくると思うが考えるだけでも辛くなる。 それにしても目がかゆい。痛いほど痒い!・・・。

雨上りの明石

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 日尾山と千代ヶ岳に挟まれた谷に位置する明石(あけいし)集落は今でこそ山陰道萩三隅道路が通って便利になってきたが、一昔前まで尾ヶ崎を回って三見に出る道が離合が出来ないほど狭く夜の通行などが厳しいこともあった。そんな明石集落の雨上りの風景。 2021年01月23日撮影 2021年01月23日撮影 2021年01月23日撮影 全体的に飯井の集落のように石州瓦の屋根が目立つ。 冷たい雨の後の薄暗い風景だが、画に残したいような素敵なカットだった。 山陰道の奥の険しい谷を越えると床並へと続くが昔は行き来があったのかもしれない。床並は赤間関街道の筋でもある。

大寧寺峠を下る

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 県道34号下関長門線を旧街道(赤間関街道北道筋)との出会いから大寧寺に向って下っていく。 現在の地形図 平成2年発行の地形図 今回歩いた県道を平成2年の地形図で辿ってみた。 2021年02月07日撮影 スタート地点の旧街道との出会い。 2021年02月07日撮影 2021年02月07日撮影 山陰道を眺める。 2021年02月07日撮影 2021年02月07日撮影 柿の木原バス停 2021年02月07日撮影 2021年02月07日撮影 盤石橋 2021年02月07日撮影 大寧寺川に沿って。 ここでゴールとした。 2021年02月07日撮影 ゴール地点近く、「餅つき地蔵」との事。杵と臼が供えてある。 今回は旧街道を点検した後の復路として県道を歩いた訳だが、嫌っていたアスファルトの道も車やバイクさえ来なければ悪くない。そして長門・俵山道路が完成していない頃の少しだけ懐かしい風景に出会えた。