毛利氏が今で云う地方行政機関にあたる宰判の勘場(代官所)を前大津地区においては最初は豊原に置いた。ちなみに前大津のエリアは三隅、深川、仙崎、通、俵山、渋木と地吉(豊田町の一部?)であったとされる。
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2012年11月11日撮影
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2016年10月10日撮影
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2016年10月10日撮影 |
豊原のこの地に勘場を置いた理由はこの先の「舟戸(船戸)」から三隅川を下って年貢米を舟で萩へと積みだしていたからであろう。
ところがこの地、豊原は前大津全体から見ると東に偏っているため、他村の庄屋から不満が出たのであろう。風水害で老朽劣化した建屋を再建するときに深川村(現・市役所付近)に移転された。(「豊原のあゆみ」より)
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2019年01月29日撮影
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2019年01月29日撮影 |
上の写真は旧長門市庁舎の頃の撮影だが、早いもので新庁舎になって二年が経とうとしている。
そして現在の勘場跡の灯籠と碑は下のように立派になっている。
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2020年12月01日撮影
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2020年12月01日撮影 |
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2020年12月01日撮影 |
このような「立派な形」で感性(センス)良く残していくことが大切であると思う。
[後記]
最初の写真の「豊原の勘場跡」は現在土地家屋の整備?で柱が撤去されている。行方が判明したら書き残しておこうと思う。
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