宗頭小学校と三隅ニット

昭和46年3月(昭和45年度末)に宗頭小学校は、三隅町立明倫小学校の新築校舎が完成と同時に吸収統合され、廃校となった。

その後宗頭小学校の校舎の一部を利用して「宗頭文化センター」が発足し、三隅公民館の分館として運営されていたと思う。

さらに昭和61年9月三隅ニット株式会社の工場誘致に伴い廃校利用をされてきた。

2003年01月24日撮影
 上の写真は今から14年前の旧校舎の写真。建屋の中の蛍光灯が点いているので、製縫工場として稼働しているときの写真だが、「三隅ニット」の頃なのか「ミスミユニオン」になった後なのかわからない。



2008年09月26日撮影
9年前の宗頭文化センター正面の様子




下の2枚の写真は、昨年の3月に撮影したもの。
2016年03月31日撮影-1

2016年03月31日撮影-2
「ミスミユニオン」の入り口?。

[付記]
宗頭小学校が廃校となった昭和46年(1971年)のころ、私はラジオと音楽に首ったけで、初めて自分専用の「ラジカセ」を買ってもらった年だったと記憶している。

以前にもこのブログで少し触れたが、深夜放送から流れてくるポップスが好きで糸井五郎さんのオールナイトニッポン(毎週月曜の深夜で日付は火曜日)を欠かさずに聴いていた。初めて聴いたのは確か1970年の初めの頃で、じいちゃんのラジオ(パナソニック製だったと思う)を借りて深夜0時になるのを待ち、ニッポン放送が入りだして(「聴け出して」の意味だが、この当時深夜0時にならないとニッポン放送や文化放送がまともに聴けなかった。)自分の至福の時間がスタートしていた。
当時の糸井五郎さん

今思うと、なぜ東京のラジオ局が山口県の北部で聴けていたのかが不思議でしょうがない。けっして地方局の中継電波を聴いていたのではないのだ。ニッポン放送、TBSラジオ、文化放送が主たるもので周波数も東京で聴くそのものなのだ。

勝手な想像だが、高層ビルがほとんどない時代で、他の電波もほとんど飛び交っていない頃の高電力AM波は1000km以上の距離をカバーしていたのかもしれない。

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