昭和40年代の頃を想う~小波橋の辺り

先日、昭和40年に完成した湯免温泉プールのことに少し触れたが、昭和40年の微かな記憶を書き残す。
昭和40年の広報
今思うと・・・
東京オリンピックで閉められた形となった昭和30年代の「高度経済成長」の時代から、昭和40年代はその勢いがさらに増して「経済大国日本!」を目指した勢いのある時代だった。
当時はそのようなことは全く感じずに三隅の片隅で少年時代を過ごしていた。

そして小波橋(さざなみはし)界隈のこと。
昭和40年代が始まった最初の年(1965年)、三隅川の河川改修工事が盛んにおこなわれていたようだ。
豊栄苑の碑

当時明倫小学校へ通っていた自分は夏ともなると毎日のように三隅川でフナを釣ったり手長エビを掬ったりして遊んでいた。その行動範囲は今の小波橋(当時は「野波瀬橋」と自分たちは言っていた。)の真下からすぐ下流の東関渕までで、一人で川に入ってもいつも川漁師?のおじさんが見ていてくれた。
「かごや」と言っていたお店が野波瀬橋のたもとにあって、一時は駄菓子なども置いていたと思う。そのお店のご主人がカニかご漁や投網漁をされていていつも傍で自分たちを見守ってくれていた、と思っている。
当時の小波橋は、今の久原橋のような形状の橋で幅員も狭く、車も離合が困難だった。もっとも車はほとんどいなかったように思う。しかしながらバスが通っていたことが信じられない。

小波橋改修工事の頃
上の写真はたぶん昭和63年か平成元年の頃の小波橋の様子だと思われる。昭和40年代の小波橋の写真が手元にないため三隅広報のストック写真を借用して残しておく。
歩行者用の橋が並行して架けられているのが懐かしく今の小波橋と三隅川を跨ぐ角度が違っていることがわかる。
三隅バイパスが存在しない頃と今の道の様子が全く違っていることが興味深い。

2019年08月13日撮影
小波橋の歩道 



2019年07月19日撮影
小波橋を渡るバス 



2019年04月12日撮影
現在の小波橋たもとの様子

この小波橋が今の様に拡幅されたおかげで野波瀬や向山の住民の生活が変わってきたことを改めて思う。

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