中原篷さんの顕彰碑
中原篷さんの顕彰碑が明倫小学校のグラウンドの西側(プールの北側)にある。
下の写真は2006年に撮影したものだが、これには訳がある。
実は「ふるさとみすみ」という閉町記念の本の記事に次のように記述されている。
「昭和40年(一九六五)11月、明倫小学校グラウンド東側に「中原篷女史顕彰碑」を建立し業績を後世に伝えている。」(一部抜粋)
ここだけで終わると方位のミスだけで終わるのだが、私が気になっているのは以下の写真のことから始まる。
資料1と資料2の写真は後ろにあるソテツの大きさからしても違う場所に思える。
私の記憶の中では最初に顕彰碑が建立されたのは「三隅町公民館の前」のソテツの横だった記憶があるのだ。つまり今は解体されて無くなった中央保育所の建屋の入り口正面左側に建立されていた記憶なのだ。
このことがずーと気になっていて、やっと記憶の裏付けができる記事を見つけたので下に紹介する。
いつ頃に明倫小学校に移転?したのか分からないが、詳しく記録された資料がないので経緯がわかるまで調べてみようと思っている。
まったく違っていたらどーしよう!"(-""-)"
草を刈って手入れをするととっても良くなると思う。
ソメイヨシノや大銀杏、モミノキなどがまだ残っていて地盤をきれいにすればとても良いロケーションなのに。
[参考]
中原篷(なかはらとま):明治6年に三隅町豊原で生まれ、3歳の時に両親とともに群馬県前橋に移り、明治22年前橋英学校卒業後、医師を目指して上京し東京医学専門学校済生学者に入学。卒業した翌年に「医術開業免状」を授与されると生まれ故郷の三隅町に帰り開業医となった。山口県下で最初の女医であった。
知らない方は調べてみると、その功績や人柄が素晴らしい女医さんだったことが分かります。
下の写真は2006年に撮影したものだが、これには訳がある。
2006年04月09日撮影 |
実は「ふるさとみすみ」という閉町記念の本の記事に次のように記述されている。
「昭和40年(一九六五)11月、明倫小学校グラウンド東側に「中原篷女史顕彰碑」を建立し業績を後世に伝えている。」(一部抜粋)
ここだけで終わると方位のミスだけで終わるのだが、私が気になっているのは以下の写真のことから始まる。
資料-1(「ふるさとみすみ」より) |
資料-2 |
私の記憶の中では最初に顕彰碑が建立されたのは「三隅町公民館の前」のソテツの横だった記憶があるのだ。つまり今は解体されて無くなった中央保育所の建屋の入り口正面左側に建立されていた記憶なのだ。
このことがずーと気になっていて、やっと記憶の裏付けができる記事を見つけたので下に紹介する。
資料-3(昭和40年三隅広報より) |
まったく違っていたらどーしよう!"(-""-)"
2017年08月26日撮影 |
ソメイヨシノや大銀杏、モミノキなどがまだ残っていて地盤をきれいにすればとても良いロケーションなのに。
[参考]
中原篷(なかはらとま):明治6年に三隅町豊原で生まれ、3歳の時に両親とともに群馬県前橋に移り、明治22年前橋英学校卒業後、医師を目指して上京し東京医学専門学校済生学者に入学。卒業した翌年に「医術開業免状」を授与されると生まれ故郷の三隅町に帰り開業医となった。山口県下で最初の女医であった。
知らない方は調べてみると、その功績や人柄が素晴らしい女医さんだったことが分かります。
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