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長門三隅駅の貨物の廃止のこと

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三隅町広報で「貨物の取扱廃止」という記事を読んだときにちょっとした疑問が湧いた。 S52年4月広報より この記事を読む限り昭和52年まで貨物(車扱?)を扱っていたようだがSLは昭和51年で確か長門機関区管内から姿を消している(貨物列車を含めて)。 「車扱貨物」というのがどういった意味かが分からないが国鉄が車で貨物を運んでいたということなのか?そしてそれまで扱っていた「貨物」とは何だったのだろうか? 「夏柑」の出荷をそれまで(昭和51年頃まで)扱っていたのか、それとも別の貨物があったのだろうか?JAに聞いてみると分かるかもしれない。 当事者は意味が分かるのだろうが今となっては理解に苦しむ記事だ。 長門三隅駅で 週刊誌や雑誌が列車から降ろされて 、それを駅前の本屋さんが受取りに行くという風景を思い出した。そういえば新聞も毎日列車で降ろされていた。 (参考) 荷物 と 貨物 の違いは、単純に人が運べるものが荷物でそうでないもの(列車やトラック、又は飛行機で運ぶもの)が貨物と思えばよい。 30瓩(キログラム)が「三十粁瓦」というあて字?が使ってあるのも面白い。 昭和45年頃?の広田を走るSL S39年11月頃の国鉄小荷物料金表 以前も書き込んだが国鉄の荷物の取扱いは運送業者がまだ無かった頃は、ほぼ独占状態(国営だから許されていた?)で「チッキ」と呼んでいたことが懐かしい。 この「チッキ」という言葉はひょっとしたら語源は「チケット」からきているのかもしれない。 祖父が東京に集団就職した娘(私の叔母)のところによくチッキで荷物を送っていた。長門三隅駅にスクーターで荷物と私を積んで行き、幾らぐらい払っていたのかこの料金表で判ってきた。 なぜ私も積んでいたのかというと、一緒に行くと駅前の本屋さんで漫画雑誌などを買ってもらえたからだ。 当時としては結構な料金だと思う。 今は運送業が発達して遠方でもすぐに届くようになってきたが、三隅から東京と言うと荷物は5日以上かかって届いていたように思う。ましてや駅留めなので近隣の国鉄駅まで取りに行くという時代だ。 荷物を送るというだけで色々なドラマが発生していた時代でもある。

2年前の沢江の風景

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旧三隅町の一番西端に位置する「沢江」は江戸時代(享保の頃?)の村絵図には既に「沢江」という字名(あざめい)があったようで、以前にも書き込んだ(三隅村の頃の資料)とおり、交通の要所としても栄えた地域だ。 その「沢江」の素晴らしい風景を過去の資料から想像したり偲んだりすることができるように「今」の風景も残しておきたく、毎年のように同じ場所でシャッターを切っている。 今回は2年前の撮影から何枚かを残しておく。 2016年07月23日撮影-1 2016年07月23日撮影-2 2016年07月23日撮影-3 2016年07月23日撮影-4 2016年07月23日撮影-5  今となっては見れない風景になってしまった。 2016年07月23日撮影-6 2016年07月23日撮影-7 2016年07月23日撮影-8 2016年07月23日撮影-9 上の写真は以前にもアップした三隅山荘の茅葺屋根の茅の張替えの風景だが、なかなか見れないと思うので再度アップ。 この「沢江」と隣接する「小浜」や「白潟」という字名もすべて仙崎湾に面した海辺の要素を有した地名になっている。 三隅民謡「扇山から」より ♪ 鷗(かもめ)なく音か あの娘の唄か ♪ あれは松風 昔を偲びや ♪ 袖の湊に ♪ 袖の湊に 雨が降る (袖の湊:沢江の古き時代の言い方)

デジタルカメラの不思議

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いつも使っているハンディタイプのデジタルカメラとスマートフォンの内蔵カメラでLEDタイプ?の表示板を撮影してみておかしなことに気がついた。 下の写真は、湯免ダムの管理室にて「情報警報表示板」を記念に撮影したものだが、最初の写真はスマートフォンにて撮影したもの。 スマートフォンで撮影したもの ちゃんと赤い計測値が写って(表示されて)いる。 もう一枚撮影してみればよかったと後で思った。  下の2枚はハンディタイプのデジタルカメラで撮影したもの。こちらはスマートフォンよりも先に撮影したのだが「あれっ?」と思った。 デジタルカメラで撮影したもの-1  1枚撮って半分文字が消えているのでもう一度撮影したものが下の写真。 デジタルカメラで撮影したもの-2 今度はすべての赤い文字が写っていないのだ。 ひょっとしてこの赤い文字(LED表示か?)は超高速で点滅していて人間の目では点滅が判断できないので点灯に見えただけなのか?と思った。 たぶんシャッタースピード(速度)の違いによるものだと思うが、カメラが真実なのか、自分の目が真実なのか分からなくなってきた。 カメラのことはあまり詳しくは知らないが、デジタルカメラは色こそ違ってもおおよそ人間の目で見た通りが写る物と思っていたが、どうも違っていたようだ。 今までもバスの先頭を撮影した時に、行先表示板が消えて写っていることが何度かあった。 これも同じ原因だと思うが、常に人間の目で見えるように撮影できる機能は無いのか?と思うことが度々ある。 私はカメラの機能で奇麗?になった写真があまり好きではない。 自分の目で見た通りに写った写真の方が好きだ。 しかし真実はカメラが正解の時もあるようだ。老化による見え方の違いも感じるようになってきたし手動でピントが合わないことが増えてきたことも哀しい。 写真を撮ることがこんなに難しいとは思わなかった。

夏の終わりの松島

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夏休みが終わろうとしているこの時期に毎年のことだが野波瀬の松島によく来る。 2018年08月25日撮影-1 2018年08月25日撮影-2 2018年08月25日撮影-3 2018年08月25日撮影-4 2018年08月25日撮影-5 2018年08月25日撮影-6 2018年08月25日撮影-7 2018年08月25日撮影-8 今年は海の風景よりも「松島という場所」を観た時の思いで撮影してみた。 子供の頃に来た時の風景と随分変わってきたが、今の子供たちの記憶に残るのはこのような風景だろうと想像しながら撮影した。 私たちの年代は、パーシーフェイスオーケストラの「A Summer Place」、又はビリーボーン楽団の「真珠貝の歌」を聴きながら松島を想うと懐かしさが倍増する。 すべて1970年代のFM・AMラジオの影響なのだ。

ジュンテンドー長門店

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「フジ長門店のロゴ」の書き込みをした時に一緒に書こうかとも思ったが、別途書き込むことにした。 「ジュンテンドー長門店」のことだ。8月5日(日)をもって閉店したのだがその2日後に行ってみた。ちょうど店内の片づけや商品の運搬をされていたので合間を狙って撮影してみた。店内の照明が点いた最後の姿になると思ったので少々気が引けたがカメラに収めた。 2018年08月07日撮影-1 2018年08月07日撮影-2 すべて片付け終わったお店の様子が下の写真だろうと思う。 2018年08月12日撮影 10年以上前のことだがパート?の店員さんで「幸せの黄色いハンカチ」の倍賞千恵子さんを想わす(雰囲気が似ていた)ようなとっても素敵な方がいらっしゃって、その方がレジに立たれる姿を見てはこの映画を思い出すという記憶が蘇ってきた。 若かりし頃、「幸せの黄色いリボン」というドーン(トニー・オーランド&ドーン?だったか1973年頃のポップスグループ)のヒット曲をラジオで知って、その何年か後に日本で「幸せの黄色いハンカチ」という映画が発表された。 ドーンのヒット曲はこれしか知らないが、当時ラジオで繰り返し流されるこの曲は日本でもかなりヒットしていたと思う。 元々のヒット曲を聴くと後発の映画を思い出す、という変な取り合わせの記憶なのだが逆に「幸せの黄色いハンカチ」と聞くと「銀座カンカン娘」という曲を思い出す。 私の記憶中枢はねじれているのかもしれない。

三隅川河口のこと

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三隅川の河口でこの季節、水面に背びれを出して泳ぐ魚を時折見かける。 かなりの大型魚で、たぶん「スズキ」がエサとなる小型魚を求めて遡上しているのだと思う。 (たまに大きな鯉が水面を揺さぶっている姿も同一場所で見る。汽水域は淡水魚と海水魚が入り混じって棲息している。) 2018年08月20日撮影-1 この写真のようにかなりの浅瀬なので大型魚が泳ぐと水面が揺らぐ。 時折、大小のチヌ(クロダイ)が堤防近くで淀んでいる。 2018年08月20日撮影-2 それにしても仙崎湾に向かう河口の風景は美しい。 正面の青海島や白潟の小山に夕日が沈んでいくことを思うだけで絶景が偲ばれる。 2018年08月20日撮影-3 開作地区を少し進むと最近人通りがないせいか堤防沿いにサギなどの野鳥が目に付く。 以前にも書き込んだことがあるが、この開作の道は高校時代の自転車通学の帰り道に通っていた道で、毎日のように水面を眺めていた。 自転車を止めては写真左側の貯水池?には大きなマブナ、右側の河口側はハゼやチヌを探していた。 こんなことばかりを思い出す道だ。

夏の終わりの稔の風景

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連日台風の情報をテレビやラジオで聴くが、逸れることばかりを願って見たり聴いたりしている。(自分勝手なこと?) 猛暑が続いていた先日まで出歩くことを極力避けていたが、思い切ってウォーキング(ただの散歩だった。)に出かけてみた。 だだっ広い夏の田園風景がとっても気持ちがよくって出かけてみるものだ、と思った。場所は豊原から平野地区の北側の田園地帯。 2018年08月20日撮影-1 一番左の背景は天井山、まん中正面は岳の山。 2018年08月20日撮影-2 右側背景は鉄割山。 2018年08月20日撮影-3 2018年08月20日撮影-4 上の2枚の稲は左右で品種が違うようだ。 2018年08月20日撮影-5  平野地区の山陰本線を「キハ120系?」車両が通過した。 上の写真の部分拡大 「キハ120系?」と書いたが車両のことはまったくの素人で本当のことは分からない。遠くから見るとおもちゃのようだ。 遠くで踏切の鳴動音を頼りにシャッターをきったが、炎天下の中でファインダーではなく薄暗い液晶画面を見ながらの撮影は厳しいものがある。 カメラはファインダーでシャッターを切りたいと思った。 夏の終わりの「稔(みのり)」の風景はやはりきれいでこのまま収穫に向けて育つことを願うばかりだ。 この「稔(みのり)」という言葉は元々が「年」と書いていたようで「年(ねん)」が「念(ねん)」に変わって「禾(のぎへん)」が寄り添った言葉のようだ。とってもいい言葉だ。

久原山トレッキングコース構想の続き

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妄想と構想の違いを考えたが「構想」として図式を造ると行動に移したくなる。 昨日の向山からの「久原山トレッキングコースの構想」だが、実はさらに続きを考えていて、地形図を見ながら 縦走してみたい尾根ルート があるのだ。 久原山からいこいの森へ 「久原山トレッキングコース」の尾根の途中(204m地点)から東に向けて いこいの森 の頂上(211m地点)へ向う「第2尾根ルート」を縦走するという続きのコースを考えている。 久原山トレッキングコース構想 たぶん尾根ルートだけは下の写真のように歩きやすい道があるに違いないがほとんど人が入っていないルートだと思われる。 2018年05月03日撮影 寒くなったら行ってみようと思う。 とってもローカルな低い山で、すべて勝手に名付けたコースだが山歩きのルートを整備すると今の時代は人がけっこうやって来るのではないかと一人で妄想を膨らませている。

久原山トレッキングコース構想

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今年になって県道野波瀬港線の峠途中の山を林業関係の方?が伐採をされている。手つかずの山に人の手が入り山が生き返るように見えてくるのが嬉しくて時折見学に行っているのだが、見るたびに思っている 妄想 がある。 せっかくここまでルートを作ったのだからついでに 尾根まで上がってくれないか 、という妄想だ。 2018年08月15日撮影-1 2018年08月15日撮影-2 下の写真は昨年のものだが草刈はしてあるが山側は鬱蒼とした雑木で手つかずの状態だった。 2017年06月15日撮影 ということで私の妄想を 構想 に変えると下のようになる。 トレッキングコース構想図 「スタート」地点が最初の写真の場所だ。駐車スペースもあるし言うことなし! そのまま谷に沿って登っていき、尾根まで削っていただくと尾根ルート始点にたどりつく。そこから久原山頂上までの 尾根道 はとってもきれいな山道で本当に気分よく歩けるのだ。 2018年05月25日撮影-1 2018年05月25日撮影-2 2018年05月25日撮影-3 上の3枚の写真は今年の5月に向山側から久原山登頂に挑んだ時の尾根ルートの様子だがとっても歩きやすいルートだと分かる。 尾根にたどりつくまでが悲惨な状態のただの斜面であった。 (仮に写真を撮ってもどこが道か判断できないような薮だった。) そして尾根ルート終点でこのような風景に出会える。 2017年03月25日撮影 2018年05月25日撮影-4 そして下山は 「向山塾」の在った谷 に下りてくるというすばらしいトレッキングコースの構想なのだが賛同してくれる方がいるだろうか? ・・・・・・ やはり妄想で終わりそうだ。

市場の冷蔵庫

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野波瀬漁港の東側埋立地にいつの頃だったか分からないが製氷庫が出来ていた。まだ現在の市場のない頃で、下の写真を見る限り埋立地の道路だけは出来ている。 いつ撮影されたものか不明の写真。 冷凍庫(製氷庫)だけの頃 下の写真は野波瀬魚市場が現役で稼働していた頃のものだ。この写真を撮影して15年以上が経過した。左に半分写っている建屋がそうだ。 2003年01月21日撮影 ここから下は現状の風景だ。 最初の写真とほぼ同じ角度で撮影したもの。 2018年08月15日撮影-1 2018年08月15日撮影-2 2018年08月15日撮影-3 製氷庫と書いたが「貯氷・冷蔵庫」が正式名称?らしく、野波瀬漁協会館が完成した(1974年6月30日完成)頃はまだ旧市場のすぐ隣に在ったと記憶しているので現在のものはいつ完成したか分からない。(1985年以降だと推測する。) 出漁する船への氷の提供だけでなく、鮮魚や半加工品の冷蔵保管を担ってきて漁獲生産性の安定を図ってきた建物だ。 野波瀬の風景も昭和の時代から随分変わってきた。そういえば平成も30年もの年月が経っている。改めて思うと「平成」が始まった頃に生まれた方は30歳になるのだ。びっくりする。