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電電公社のこと

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豊原の旧国道沿い(現在は県道287号線)にシルバー人材活用センターの建屋がある。その昔、ここは電電公社(正式名:日本電信電話公社)の「三隅電報電話局」の建物だった。昭和30年頃に出来たものだと聞いたことがある。今はこの建屋の裏手に小さなキャビンがあり、たぶんその中に交換機等の機器類が設置してあるものと思う。そこが現在のNTT(日本電信電話株式会社)の設備になっている。 2015年08月16日撮影 電信電話を英語で「Telegraph and Telephone」と言い、頭文字のTとTをとってデザインされたマンホールのふたを見つけた。 何処にでもあるのかもしれないがよく見ると「T」の文字だらけだ。 2017年05月28日撮影 ここで私の電話に関する想い出を2つ書き留めておく。 昭和51年の頃(1976年)だったと思うが東京からの新幹線の中の公衆電話(確か100円硬貨しか使用できなかった)で、小郡駅(現・新山口駅)に到着する時刻が遅れることを自宅に伝えたいときに、新幹線の中の 列車電話 からは、 主要都市しか繋がらない ので下関市に住んでいた親戚の叔母に電話して、自宅への連絡の中継をしてもらったことがある。 今思うと不便な感じがするが、その時は「なんで210Kmで走っている新幹線から電話ができるの?」と思い、とても不思議で電話をしている自分自身がワクワクした。トンネルに入ると電話が切れるのではないか、とも思った。「夢の超特急」とはまさにこのことだと思った。 もう一つはかすかな記憶だが、初めて電話という機械を使った時の記憶で ダイヤルもない電話機 で回転式の ハンドルを回して 受話器を取って自分の口で電話番号をしゃべる電話機があったと思っているが、同世代の友人は「知らない」という。4桁程度の番号を電話局の相手(交換手?)に伝えるとしばらくすると相手方につながる。私の勘違いなのかもしれないが据え置きの電話機でこんな時代があったと思っている。 親に頼まれて、どこかに電話をしたことがあるのだが、ひょっとしたらこれが私の生まれて初めての電話経験かもしれない。

森林組合のこと

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土手の役場の前の道を抜けてお宮(三隅八幡宮)に行く途中、琴影橋の手前に森林組合があった。 私が小学生の時に、叔母の一人が森林組合に勤めていて用もないのに会いに行っていた記憶が残っている。 2014年10月11日撮影-1 役場の前の河崎の本屋さんの前を通って歩いて行くと・・・ 2014年10月11日撮影-2 突き当りに黒ずんだ大きな木造の建物だった「三隅町森林組合」があったのだが、 その後上の写真のように「山口県西部森林組合」となっていった。 2017年05月28日撮影 さらに上の写真のようについに建屋が撤去されてしまった。 この森林組合は、軌跡をたどると1941年(昭和16年)に 三隅村森林組合 として創立され、その後村から町になると共に 三隅町森林組合 と名前を変えてきた。 昭和28年、町村合併促進法により、県から長門市との合併を強要されたようだが三隅町には当時莫大な 森林資産 (町有林を含む)があり、即時伐採できる森林資産が時価で四億数千万あったらしく町民の総意を含めて合併を拒否したと記録にある。 (「三隅町の歴史と民俗」より) つまり 町の自力で住民福祉が出来ていた 訳である。 平家物語ではないが「盛者必衰」という言葉を思い出した。しかしながらそれほどの馬力のある町だったわけだ。地形的にも住みやすく治めやすい町だった(今もそうです!)と思っている。

水準点と三角点

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三隅八幡宮の境内下に「水準点」という基準点設備がある。 国土地理院が設備した日本にとって重要な測量基準点である。 2017年04月27日撮影  水準点というのは土地の高さ(標高)を求める 基準点 のことで、平成2年発行の地形図では三隅八幡宮下の水準点は「9.4」と記されている。 (現在は8.4になっているようだ。基準が変わったのか?) この「9.4」という数字はたぶん日本の標高水準の 東京湾の平均水位 を基準として9.4m地点という意味だと思う。 注)すべて自分の知識と推測だけで書いているので間違いがあっても指摘してはいけません。 国土地理院1/25000地形図-部分拡大 もう一つ基準点の種類に「三角点」という基準点がある。 こちらは、かの伊能忠敬が日本地図を作製した時の手法と一緒で、三角測量にて計測された 山等の経度・緯度・標高を表す ものだと理解している。 地図の中でも「国土地理院発行」の地形図は見るだけでとっても楽しいのだが年齢とともに細かい部分が見えづらくなってきた。 タブレット等で見れる電子版があれば購入してみようと思っている。

レコード店の記憶

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先月より、若かりし頃に買ったレコードを整理している。(家内には、売るなり捨てるなりの処分を要求されていたが、なぜか手放すことが出来ない。) その時に、レコード盤やジャケットよりも懐かしいものを見つけた。 それは、・・・かなりの経年で変色しているがレコード店の袋である。 昭和の時代は何処の街にも1軒ぐらいあった「レコード店」に、それぞれのオリジナルのレコードを入れる透明の袋や、購入したレコードの持ち帰り用のレジ袋?が宣伝用に用意されていた。 高木レコード店  上の写真は長門市にあった「 高木 」と後の「 ニュー高木 」のレコード袋。 長門市はその昔、正明市(しょうみょういち)と言っており、小学生のころまで会話の中では「しょうみょう」と言っていた。地名としては今でも残っている。 つまり「しょうみょうの高木にレコードを買いに行く。」となるわけだ。 山根電化社 上の写真は長門プラザ(正式名:長門ショッピングプラザ)にあった「山根電化社」の持ち帰り用のレジ袋?。 長門プラザ は、今でいう「ウェーブ」の前身のようなショッピングセンターで、私が高校生だったころ(昭和49年か50年?)にオープンした記憶がある。場所としては昨年完成したコスモス長門市駅店の位置にあった。 写真には出てこないが、長門市にもう一軒「 ワダ・ミューズ堂 」というレコード店があり、とても良く通っていたが、このお店のレコード袋は無色透明だったように記憶している。 この袋を見て、長門市駅から汽車に乗って長門三隅に帰ってくる光景を思い出した。

昭和の長門三隅駅 続編

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昭和47年~48年の頃の長門三隅駅が、私にとって一番想い出の多い時期なのだが最近の写真で記憶を辿ってみる。 2014年に撮影した写真を元に説明書きを記録しておく。 2014年06月29日撮影-1 上の写真の跨線橋(線路の上の通路)は当時無かった代わりに、線路内に降りていく通路があった。写真で見ると微かに降り口のコンクリートの色が違っている。(通路を撤去してホームの縁を埋めた跡) 下の写真は跨線橋から長門市駅方面に向いて撮影したもの。 2014年06月29日撮影-2 3番線があった頃に、長門市から来た列車が1番線に到着し、駅構内で入れ替えをして3番線に着けて、先頭の機動車だけがまた入れ替えをして長門市方に付け替えて、そのまま夜間留置をして次の日に長門市に向けて出発していた時代もあったと記憶している。 下の写真は長門三隅駅ではないが、通路のイメージ。 通路のイメージ 下の写真は跨線橋から飯井駅方面(萩方面)に向いて撮影したもの。 2014年06月29日撮影-3 2014年06月29日撮影-4 2・3番線のホーム上の 待合室 があった位置に、違った色のアスファルトが張ってあり明確に場所がわかる。 3番線のあった場所は写真を見てわかる通り雑草が茂っていて、まったく名残がない状態。レール自体も撤去されている。 2014年06月29日撮影-5 以前にも書き込んだが、昭和40年前後から三隅町で「夏柑」の栽培が盛んに行われ、ここから貨物列車で出荷するほど栄えた時もあったようだ。(上の写真のすぐ右側が現在の保材線。) ここから汽車に乗って長門市や萩の町にレコードを漁りに行っていたわけだが、その レコード店 も今はすべて無くなった。 今度はレコード店の話を書き留めておこうと思う。

三隅町弓道場のこと

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浅田にある三隅勤労者スポーツセンターの裏手に「三隅町弓道場」がある。といっても私はこの写真を撮る日まで存在を知らなかった。 何らかの建物があることはその前から気づいていたが、「三隅町弓道場」という名前に気づかなかった。 2013年07月19日撮影-1 2013年07月19日撮影-2 2017年01月19日撮影 上の写真は今年の1月に撮った勤労者スポーツセンターの様子。 今、まだここ(弓道場)が使われているなら、使っている現場を見たいと思った。 私が初めて「弓道」というものを見たのは高校に入学した時で、入学式のすぐ後だった記憶があるが、胴着袴を纏った上級生(たぶん3年生)の女性が弓道場(今はたぶん無いと思う)で弓を射ていた姿が新鮮で眩しく写り、しばらく眺めていた記憶がある。昭和48年の話だが、頭の中がほぼ子供だった私が一気に大人の世界に引き込まれたような衝撃も感じたシーンでもある。

「ゆきの」の想い出

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土手にあった「ゆきの」さんにお昼ご飯を食べに(鍋焼きうどんとシソワカメのおにぎりのセット?をよく注文していた)時々通っていた時代があった。 20年以上前のことだ。 確か昨年だったと思うがのれんを降ろされた。 「お疲れさまでした!」 昨年の夏に撮った写真と10年前の写真を比べてみる。 2016年08月21日撮影 山口銀行の向こうに役場の建物がちらりと見えている。 2007年04月07日撮影 私はここの風景がとっても好きで、入り口の引き戸の中に見える黒いのれんと白い表札の「ゆきの」のマッチングがとても気に入っている。 隣の田中呉服店さんの「たばこの看板」や「小料理ゆきの」の夕暮れ時の薄灯りの風景が大好きだった。すべて過去形になってしまった。 実は昨年「 ゆきの のある風景」を写真を見ながらスケッチして水彩絵具で色付けしてみたこともあるのだ。素人の下手な絵だが自分では気に入っている。 いつかゆきのさんとお知り合いになれたら見ていただこうと思っている。 過去に撮った写真がもっとあるはずなので見つかったら再度アップすることにしている。

古八幡宮の辺り

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昨日に続いて古八幡宮の辺りの風景を眺めてみる。 このあたりの小高い田園地帯は、三隅バイパス(国道191号線)と県道287号線(旧国道191号線)に挟まれた地域で、傾斜が緩やかでわかりづらいがよく見ると 広大な段々畑 に近い風景だ。 2017年05月15日撮影-1  古八幡宮のある山?の北側から南に向いての風景。 2017年05月15日撮影-2 同じく北側から最初の写真の西側を眺めると「北長門」の建物が少し現れる。  2017年05月15日撮影-3 古八幡宮の鳥居から浅田小学校側を眺望。背景に東方の山がそびえる。  2017年05月15日撮影-4 古八幡宮の北側から少し西に行くと村田清風記念館がある。その途中の道から開作方面を眺望。

古八幡宮のこと その2

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昨年だったか、古八幡宮のことを書き留めたが、続きを書いてみる。 下の写真の説明文を読んでみると、「昔は大きな神殿と広い馬場をそなえた、立派な宮造り・・・」と書かれているが、神殿に関してはたぶん今の神殿のある場所だと思うが、「 広い馬場 」というのが何処に位置していたかがとても気になっていた。 説明看板(楯看板) 下の地図(航空写真)で周辺のイメージをつかんで、想像してみる。 google earthより-1 google earthより-2 上から見ると小さな山だが、昇ってみると小高い丘のように思えるほど低い。 2017年05月15日撮影-1 東側から境内を眺めると手前の水田辺りが馬場だったのかもしれない。 2017年05月15日撮影-2 参道を見ても向って左側が少しだが開けている。  2017年05月15日撮影-3 2017年05月15日撮影-4 ところで、お宮の側にはなぜ「馬場」があるのだろうか? 昔は競馬があっただとか、流鏑馬(やぶさめ)の奉納があったらしい、とか色々と説を聞いたが本当のところはわからない。 想像するととっても楽しく、実際に目の当たりにしてみるとまた違った想像が生まれる。 続きは次回「その3」で、「風景として観た古八幡宮」を書きとどめる。

水田の季節

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田んぼに水が引かれるこの季節、見慣れた風景が少し変わって見える。 水面に朝日や夕日がキラキラと輝いたり、山影が映えたりするさまは何ともいえず美しく、それを表現する撮影技術が足りないのが歯がゆいくらいだ。 2017年05月15日撮影-1 2017年05月15日撮影-2  この地区では珍しくアマサギがやってきた。(久しぶりに見た。) 2017年05月15日撮影-3  下の写真は上の写真の一部を拡大したもの。 アマサギの拡大 このアマサギは人懐っこいのか、田植え機やトラクターなどの後をついて歩き、エサをついばむ習性がある。 「三隅町の歴史と民俗」という書籍の「鳥類」の章には記述がないので近年渡って来だしたのかもしれない。 ただ、 当書籍にはサギの種類は「アオサギ」、「シラサギ」、「ゴイサギ」しか記述がされていない。本来「シラサギ」という種類のサギは居なくって、オオサギ、チュウサギ、コサギやこのアマサギを総称して「シラサギ」と言っていた。つまり白いサギを単純にシラサギと記述してあるだけのことかもしれない。 三隅町の歴史と民俗:   昭和48年3月に当時の三隅町の全世帯に配布された貴重な書籍で、発行者は当時の三隅町長 森澤雄治となっている。

杉山の里

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昨年だったか、杉山銀山のことを紹介したが、今回は 里山の風景 を色濃く残した写真が出てきたので紹介。 14年前の2003年に撮影した風景だが、電線とアスファルトの道とイノシシ除けの柵がなければ、いつの時代かわからないような日本の里山の風景である。 2003年01月24日撮影-1 2003年01月24日撮影-2 何日か前に降った雪が解けた後に行ったような記憶があるが、あまり寒さが感じられない写真になってしまった。 民家の屋根のスロープが寒冷地仕様?の角度だ。 2003年01月24日撮影-3 帰り道に撮影したお地蔵様(道祖神)。 昔風に言うと「きれいなおべべを着せられている」。

給食センターのこと

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大竹にある学校給食センターが稼働を停止して何年かになるが、外見がかなり痛んできている。(かなり老朽化しており、解体が検討されているとの話を昨年聞いた。) この施設は確か昭和47年のはじめ頃に完成して、三隅町の学校の給食を賄ってきた。最初の頃は町内の保育所の給食だけ作っていたような記憶があるが記憶間違いかもしれない。45年以上経った建物である。 2017年05月06日撮影-1 2017年05月06日撮影-2 2017年05月06日撮影-3 何年かたって、給食センターの排水が大竹川を汚染していることがわかり、排水設備が改修されたようだ。 10年程度前に、三隅中学校の給食を生徒と一緒に食べれる機会を校長先生に与えていただき、二度とこんな経験は出来ないと思いつつ給食室に行ったことがある。その時の給食はとってもバランスが良く美味しく感じた。 小学生の頃学校へ行くのがとても嫌いで、その原因のトップが給食だった。(幼少の頃は脱脂粉乳も経験している世代) 給食のパンが嫌いでいつも机の中に食べずに隠していた。大掃除のときに先生にばれて、カビだらけの変色したパンをごみ焼き場に持っていって焼いた思い出も幾度もある。昔は学校や公民館に大きな焼却炉(ごみ焼き場と言っていた)があり、ごみを焼くというより汚いものを燃やしていた感がある。学校からは毎日のようにごみ焼き場の煙突から煙が出ていた。

無くなったお店

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先日、「衝撃の風景」でうどん屋さんの「ぼくの店」を取り上げたが、今は跡形もなく建物が撤去されている。 2017年04月29日撮影  下の写真は7年前に行ったときに撮影した写真。 2010年03月30日撮影 今年になって旧三隅町役場の建屋も無くなりここも更地になったわけだが、お店などを閉められて建物だけが残るのと、跡形もなく建物も無くなるのとどちらが寂しいかというと今は建物ごと無くなるほうが寂しく感じる。 年月が経つと、たぶん建物が残っている方が寂しく感じると思う。 三隅地区の中で昨年末から今年にかけて閉店されたお店が何件かあり、衝撃が止まらない。 気持ちが落ち着いたら少しづつここ(Blogger)に残しておこうと今は思っている。

沢江公会堂の想い出

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小学生だったころ(昭和40年代初期)に沢江公会堂に そろばん を習いに来ていた記憶がある。 記憶が定かではないが毎週水曜日?の夕方5時頃から習っていて、その時の指導者(先生)は長門高校の先生で、先生もわざわざここまで来られていたような薄っすらとした記憶だ。 男の先生だったように思う。 なぜはっきりと覚えていないのかは、たぶんそろばんが嫌いだったからに違いないと自分なりに解釈している。 そろばんが嫌いでもここ( 沢江公会堂 )に来ることはとても楽しみにしていた。(そこだけは間違いない。) 2016年07月23日撮影-1 2016年07月23日撮影-2 2016年07月23日撮影-3 なぜ楽しみにしていたかというと、早くここに来て、先生が来るまでピンポン(卓球?)をして遊べたからだ。 (相手が誰だったのかは覚えていない。) というわけで、公会堂の中に卓球台があったのだ。その後半世紀が経ったがこの建物は改修工事等があったものの当時のままのような気がする。 中は確認できないが、卓球台はたぶん無くなっていると思う。

続・有線テレビみすみ

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以前にアップした「有線テレビみすみ」の続きの話。 旧三隅町に「CATV有線放送設備」が完成して 今年で20年目 になる。と言っても途中からほっちゃテレビに加入となったが設備はそのまま存続されている。(中の機器は当然変わってきていると思う。) 下の写真は「有線テレビみすみ(YTM)」が完成した年に撮影した写真が残っていたので2枚ほどアップロード。 1997年11月03日撮影-1 1997年11月03日撮影-2 入り口の両サイドの木の成長を見るため、10年後と20年後の写真を比べてみる。 下の写真は10年後の様子。 2007年04月14日撮影 下の2枚はさらにその10年後(最初から20年後)の写真。 2017年03月05日撮影-1 2017年03月05日撮影-2 20年の月日の移り変わりは建物だけではわかりづらい。 下は以前にも紹介したチャンネル表。 地デジ(地上波デジタル放送)が始まる前のものだが、 CATV用の変復調器1つですべてのチャンネルが簡単に見れた。 総務省が完全地デジ化を提言したのは 2011年7月24日から で、これに伴い家電屋さんや電気屋さんがとっても忙しくなった。 ところがこの年の 3月11日に東日本大震災が発生 し、東北3県(岩手・宮城・福島)のみ 完全地デジ化を見合わす ことになった。 話を戻すと、三隅のエリアはこの頃YTM(ケーブルテレビ)の加入者以外に昔ながらのアナログ波の八木アンテナがいくつか残っていたと記憶している。このような世帯は地デジ用のUHFアンテナに変えないとテレビが見れなくなる。ましてやテレビ自体も買い替える必要があったわけで、行政や電気屋さんのサポートも結構な労力を要したことだと思う。 ちょっと前のことなのに忘れかけていることがたくさんある。 さらにこの続きはいつか書き残すことにする。