森林組合のこと
土手の役場の前の道を抜けてお宮(三隅八幡宮)に行く途中、琴影橋の手前に森林組合があった。
私が小学生の時に、叔母の一人が森林組合に勤めていて用もないのに会いに行っていた記憶が残っている。
役場の前の河崎の本屋さんの前を通って歩いて行くと・・・
突き当りに黒ずんだ大きな木造の建物だった「三隅町森林組合」があったのだが、 その後上の写真のように「山口県西部森林組合」となっていった。
さらに上の写真のようについに建屋が撤去されてしまった。
この森林組合は、軌跡をたどると1941年(昭和16年)に三隅村森林組合として創立され、その後村から町になると共に三隅町森林組合と名前を変えてきた。
昭和28年、町村合併促進法により、県から長門市との合併を強要されたようだが三隅町には当時莫大な森林資産(町有林を含む)があり、即時伐採できる森林資産が時価で四億数千万あったらしく町民の総意を含めて合併を拒否したと記録にある。(「三隅町の歴史と民俗」より)
つまり町の自力で住民福祉が出来ていた訳である。
平家物語ではないが「盛者必衰」という言葉を思い出した。しかしながらそれほどの馬力のある町だったわけだ。地形的にも住みやすく治めやすい町だった(今もそうです!)と思っている。
私が小学生の時に、叔母の一人が森林組合に勤めていて用もないのに会いに行っていた記憶が残っている。
2014年10月11日撮影-1 |
2014年10月11日撮影-2 |
2017年05月28日撮影 |
この森林組合は、軌跡をたどると1941年(昭和16年)に三隅村森林組合として創立され、その後村から町になると共に三隅町森林組合と名前を変えてきた。
昭和28年、町村合併促進法により、県から長門市との合併を強要されたようだが三隅町には当時莫大な森林資産(町有林を含む)があり、即時伐採できる森林資産が時価で四億数千万あったらしく町民の総意を含めて合併を拒否したと記録にある。(「三隅町の歴史と民俗」より)
つまり町の自力で住民福祉が出来ていた訳である。
平家物語ではないが「盛者必衰」という言葉を思い出した。しかしながらそれほどの馬力のある町だったわけだ。地形的にも住みやすく治めやすい町だった(今もそうです!)と思っている。
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