「日本万国博覧会」が開催された頃

1970年(昭和45年)に大阪府の千里丘陵で開催された「日本万国博覧会」(通称:大阪万博)は個人的には当時のテレビの報道でしか見ていない。
その当時ここ大津郡三隅町で中学生になったばかりの自分には遠い世界の出来事感が強く、大げさに言うと外国の出来事のようなイメージさえ持っていた。
昨年だったか、このブログで「20年以上開けていなかった箱」から出て来たお土産でもらった「万博風呂敷」のことを書いたことがあったが、自分にとっての大阪万博の印象はこの風呂敷なのだ。
万博風呂敷の入れ物

昭和45年当時の三隅町での鉄道環境は、というと・・・
長門三隅駅から汽車(蒸気機関車:C58やD51)に乗って隣の街(萩や長門市)に行っていた。まだ蒸気機関車の貨物列車が頻繁に走っていた。夏休みなどに下関まで汽車に乗って行けることが嬉しくて前日の夜は眠れなかったほどの興奮があった時代で、ましてや大阪万博に行くなど外国旅行のようなイメージだった。中国自動車道もまだ無く、山陽新幹線は構想しか出来ていない時代だ。行かれた方々はそれぞれどのような手段で行かれたのか聞いてみたいくらいだ。
美祢線で厚狭まで出て(「行って」とは言わず「出て」と言っていた。山陰側から山陽側に抜けて、というイメージか?)山陽本線で寝台特急か普通列車の乗り継ぎか?が普通に考える大阪へのルートだが、山陰本線で米子まで行って伯耆大山から伯備線で倉敷、岡山と抜けて大阪へ行った方もいるようだ。どちらにしろ別世界に行くような旅行だ。
当時の国鉄路線はとっても賑やかだったことだろう。

ちょっと話しが長くなったが大阪万博が開催されてからもうすぐ半世紀が経つ。7年後の2025年には再度の「大阪・関西万国博覧会」が開かれようとしている。

[記事]
日本万国博覧会・開幕・・・1970年3月21日(土)春分の日
閉幕・・・1970年9月13日(日)



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