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8月, 2017の投稿を表示しています

センザキッチン完成間近!

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以前紹介した仙崎に出来つつある「センザキッチン」が完成間近となった。 2017年08月26日撮影-1 2017年08月26日撮影-2 仙崎地区交流拠点施設「センザキッチン」は今年の 10月に直売所がオープン して、来年の4月にグランドオープンの予定らしい。 基本的には「道の駅」っぽいが海産物が主体となりそうな雰囲気だ。 これを起爆剤に 昔ながらの仙崎 にも立ち寄ってほしい。特に、 仙崎駅が近いことをもっとアピール すると仙崎全体が賑わってくると思う。 車で来た人を 駅まで歩かせる ルートをつくる(散策マップで指示)と人の流れが変わってくると思う。 「引揚の地」から「集結の地」へと変わってきたらいいな。

風景として見る三隅バイパス

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1994年(平成6年)に 三隅バイパス国道191号線 が全面開通して23年が経つ。 このバイパスの所々を適当にカットして一つの風景として眺めてみるとけっこう印象的な写真になる。 2017年08月26日撮影-1 北長門に停車する他県からの 観光バスの種類の多さ にびっくりする。 2017年08月26日撮影-2 逆方向に眺めると 岳の山 を背景に撮影できる。  2017年08月26日撮影-3 清風市場は 鉄割山 を背景に撮影できる。 2017年08月26日撮影-4 パチンコ店は 青海島や仙崎湾 を背景に撮影できる。 元々が小高い場所だったため、眺めは良い。浅田地区や沢江地区を見下ろせる撮影ポイントがけっこうある。 たまにはバイパスを歩いてみよう。 但し、トンネル内の歩道は、走行車両(特に大型)の風圧がすごいので高齢者は注意が必要です。

三隅中学校の仮設校舎

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今から2年前の夏に三隅中学校のグラウンド側の古い校舎が解体された。 その時に正面玄関(校門側)前に仮設校舎が設置してあった。 2015年08月16日撮影-1 2015年08月16日撮影-2 2015年08月16日撮影-3 2年経った今はすべて撤去されて、こんな校舎があったことがまったくわからないほど形跡がない。 三隅中の歴史の1ページとしてここに掲載することにした。 2015年08月16日撮影-4 2015年08月16日撮影-5 下の写真はその1年後のもの。仮設校舎が撤去された直後。 2016年08月21日撮影-1 2016年08月21日撮影-2 今年も暑い夏が終わろうとしている。

長門機関区の転車台 その後

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先日長門市駅構内にあった「転車台」のことを書き込んだが、その後の様子を見に行った。 長門鉄道部運転支所前には何もなかった。 2017年08月26日撮影-1 2017年08月26日撮影-2 2017年08月26日撮影-3  転車台があった辺りは更地のように埋め戻してあり、何もなかったかのように消え去っていた。 すっかり別の風景になってしまった。 [付録] 下の写真は長門市駅構内の東側。 2017年08月26日撮影-4 かなり昔からここには「国鉄」のコンテナが据えてあった。 その昔、長門市駅前(正明市駅)に日通(日本通運)の倉庫があったがその名残なのか? またはポイント(転てつ転換機)の清掃道具や冬場のカンテラの道具がしまってある倉庫なのか? このコンテナを積んだ長い貨物列車が運行されていた風景がとっても懐かしい。

中原篷さんの顕彰碑

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中原篷さんの顕彰碑が明倫小学校のグラウンドの 西側 (プールの北側)にある。 下の写真は2006年に撮影したものだが、これには訳がある。 2006年04月09日撮影 実は「ふるさとみすみ」という閉町記念の本の記事に次のように記述されている。 「昭和40年(一九六五)11月、明倫小学校グラウンド 東側に 「中原篷女史顕彰碑」を建立し業績を後世に伝えている。」(一部抜粋) ここだけで終わると方位のミスだけで終わるのだが、私が気になっているのは以下の写真のことから始まる。 資料-1(「ふるさとみすみ」より) 資料-2 資料1と資料2の写真は後ろにあるソテツの大きさからしても違う場所に思える。 私の記憶の中では最初に顕彰碑が建立されたのは「 三隅町公民館の前 」のソテツの横だった記憶があるのだ。つまり今は解体されて無くなった中央保育所の建屋の入り口正面左側に建立されていた記憶なのだ。 このことがずーと気になっていて、やっと記憶の裏付けができる記事を見つけたので下に紹介する。 資料-3(昭和40年三隅広報より) いつ頃に明倫小学校に移転?したのか分からないが、詳しく記録された資料がないので経緯がわかるまで調べてみようと思っている。 まったく違っていたらどーしよう!"(-""-)" 2017年08月26日撮影 草を刈って手入れをするととっても良くなると思う。 ソメイヨシノや大銀杏、モミノキなどがまだ残っていて地盤をきれいにすればとても良いロケーションなのに。 [参考] 中原篷(なかはらとま):明治6年に三隅町豊原で生まれ、3歳の時に両親とともに群馬県前橋に移り、明治22年前橋英学校卒業後、医師を目指して上京し東京医学専門学校済生学者に入学。卒業した翌年に「医術開業免状」を授与されると生まれ故郷の三隅町に帰り開業医となった。山口県下で最初の女医であった。 知らない方は調べてみると、その 功績や人柄が素晴らしい女医さん だったことが分かります。

三隅中学校グラウンド

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今から11年前の2006年に三隅中学校の南側を撮影した写真がある。 以前にも説明したが、旧三隅町役場の建物がちょっとだけ写っている。 2006年04月09日撮影-1 2006年04月09日撮影-2 2006年04月09日撮影-3 下の写真は今年の2月と8月に撮影したものだが、上と比べるとグラウンドがとっても広くなっているように感じる。 2017年02月02日撮影 2017年08月25日撮影-1 2017年08月25日撮影-2 昨年、保健センター(三隅支所)と公民館をつなぐ道路(南側)の新設工事が完成して、グラウンド側に道路が食い込んでいるのでテニスコートが狭くなったようなイメージだったが11年前と比べるとかなり広く感じる。 写真の撮影のし方の違いかもしれないがこの違いは何だろう? それともグラウンドの拡張工事があったのか?記憶にない。

萩駅舎のこと

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今回は三隅から少し離れて山陰本線の 萩駅舎 の話。 今から10年前に撮影した写真が出てきたので記録としてここに残す。 2007年06月16日撮影-1  元々あった駅舎は昔ながらの木造の駅で、駅舎内にはKIOSKUの売店もあってとっても昭和チックなものだったが、いつしか「萩市自然と歴史の展示館」(入り口右の看板)というまったく似合わない名前がつけられていた。入り口上の看板は「登録有形文化財 萩駅舎」と掲げられている。こちらはまだ許せる。 せめて「井上勝記念館」とか「鉄道資料館」のような名前にしてほしかった。 (参考)井上勝:長州ファイブの1人で、日本の鉄道の父と呼ばれた人物。鉄道による日本の近代化を目指した萩出身の偉大な人物。(興味がある方は調べてみると面白いかも。) 2007年06月16日撮影-2 遠くから訪れる観光客は、萩市の中心駅が「東萩駅」であって「萩駅」ではないことが紛らわしいと思う。 しかし駅舎自体のデザイン的な存在感はここ萩駅の方が圧倒的に勝っている。 その昔、特急列車や急行列車はここには止まらず、すべて「東萩駅」に停車していた。 しかし今は「トワイライトエクスプレス瑞風」のおかげでちょっとアピールできているように思う。駅前に停車する 瑞風バス も良く似合う。 写真がないのが残念だ。

夏の野波瀬漁港

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日本海の港湾内の海は、夏になるとアオサ等の切れ藻やワカメのべとつき感が無くなり、きれいな海水になる。それが青空に覆われると何とも言えないきれいな海に見える。 ということで今回は2017年の野波瀬漁港の風景を外波止場よりぐるりと見渡す。 2017年08月22日撮影-1 室生方面の景色。 背景の山は生島から登ると「いこいの森」という。  2017年08月22日撮影-2 漁協会館の正面。 手前の左右の石垣の波止場が昭和の時代からの旧波止場。  2017年08月22日撮影-3 市場の様子。  2017年08月22日撮影-4 灯台から松島方面。  2017年08月22日撮影-5 外波止場先端から安藤建設のヒラメの養殖場方面。  2017年08月22日撮影-6 幸島を見渡す。  2017年08月22日撮影-7 松島の先端を見渡す。  2017年08月22日撮影-8 2017年08月22日撮影-9 波止場から地蔵崎方面。 これほどの角度から撮影して、釣り人がまったく写っていないのは本当に珍しいことで、何気ない写真だが貴重な風景写真かもしれない。 猛暑日で人気(ひとけ)が無いのかもしれないがとにかく暑かった。

まっすぐな道

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三隅上の兎渡谷(とどろく)から麓(ふもと)にかけての田園地帯に本当にまっすぐな道がある。 自転車に乗って下に向かって漕ぐと オニヤンマ が並走してついてくる。 本当に 気持ちのいい道 だ。農道を整備されている方々に感謝。 2017年08月22日撮影-1 2017年08月22日撮影-2 2017年08月22日撮影-3 夏のこの時期に、自転車で力走するとよく トンボが並走 してついてくる。これは海でイルカが舟の横や斜め前を並走して泳いでくるのと同じ原理だと思っている。 気流(自転車)や水流(舟)が飛びやすい、又は泳ぎやすい流れをつくるからであって、けっして人に懐いているわけではない。 今日はアキアカネ(赤とんぼ)がついてきたが、その横をオニヤンマが飛んできた。明らかに横に並走して飛んでいるのだ。スピードを落とすと去っていく。 暑いことを忘れて必死で漕いだ。 自転車を止めると汗が噴き出た。年甲斐もなく興奮した。

健康宣言の町

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三隅町は稲田正治(いなだまさじ)町政が終焉を迎えるころ、昭和41年に「 健康の町 」という宣言をした。当時小学生だった自分は何のことだかサッパリわからず言葉だけはよく耳にした。 その後森澤雄治町政に変わり「 体力づくりモデル町 」の指定を受け浅田、宗頭、さらに明倫と順次小学校のプールが出来て行った。 と言うことで当時は町のあちらこちら(上地区・中地区・下地区)で「 健康宣言の町 」という大きな立て看板を目にした。 昭和38年 山口国体旗が役場前を通過 上の資料写真をみると、昭和38年山口国体の国体旗が役場前を通過と記しているが、「健康の町」宣言は昭和41年なのだ。 この食い違いは何だろう?「健康の町宣言」と「健康宣言の町」は違うのか?それともすでに宣言をしていたのか? 昭和41年代 写真は「ふるさとみすみ」より引用 いつの間にか撤去されたこの看板は、自分の中で風景と一体化しており、懐かしくもある。向こうに見える 日本石油が扱っていたCALTEXの星マーク にびっくり。とってもアメリカンでかっこいい。 いつか、ガソリンスタンドの記事を残したいと思っている。 さて、この「健康の町」宣言に伴う事業として当時の三隅町がやってきたことは 下水溝の整備 集団胃がん検診 血液型住民総登録の実施 衛生自治会連絡協議会の発足 箱モノを除いても行政の努力がうかがえる項目ばかりだ。 こんな小さな本州の片隅の町で、日本の高度成長の縮図を見るようなことをやっていたのだ。下水溝の整備も町内すべてではないが東京オリンピック(昭和39年)の2年後からやっていたわけで、今思うと不衛生極まりない時代によくやったと思う。 (参考)東京オリンピックの前に東京都は汚水が流れる不衛生な川に蓋をして暗渠化していった。つまり汚いものを隠していったのだ。その蓋のおかげで出来た新しい道も結構ある。

カワウソのニュース

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2017年8月17日(木)の夕方、テレビで「絶滅したニホンカワウソ、長崎県対馬で発見か?」とのニュースにちょっとびっくりした。 発見されたのが「ニホンカワウソ」であってほしい、と思った。 2017年08月18日 毎日新聞より この記事を見た時に、「トキ」の絶滅報道を思い出した。確か、日本で生まれた最後のトキが死んだ時にニュースが流れた。 この新聞記事を読んで、あれっ?と思ったのは、2月に撮影した動画がなぜ8月まで公表されなかったのか、半年間も断定できなかったのか、または気が付かなかったのかということが言葉は悪いがイラつく。 子どもの頃に見ていた動物や昆虫で最近まったく見なくなったと思っているものがいくつかある。 三隅川では・・・ マブナ、ウナギ、シマドジョウ、タナゴ、ゲンゴロウ 野山では・・・ ノコギリクワガタ、ミニクワガタ、タマムシ 海岸では・・・ タツノオトシゴ、カイダコの殻、うさぎ貝の殻 等々。 いつか発見したらここで紹介する。

市の建具屋さん

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三隅八幡宮の境内下(横)にとても記憶に残っている建具屋さんがある。 私の記憶の中では「三浦建具店」?の倉庫だったと思う。 「YKK」とたくさん書いてあるトタンがとても印象深い。 2014年12月27日撮影-1 2014年12月27日撮影-2 2014年12月27日撮影-3  「八幡様」と「トタン屋根」の倉庫が一体となって私の 記憶の中の風景 になっている。 下の2枚の写真は昭和40年代初期の「お祭り(例大祭)」の時のものだが、1枚目はお面のお店の向こうにトタン屋根が見える。 昭和40年代初期-1 昭和40年代初期-2  2枚目は 腰輪踊り の見物客の向こう側にトタン屋根が見える。 この 錆びたトタン屋根 が奇妙に記憶に残っていて、小学生の時にじいちゃんに連れられてこの建具屋さんの中に入った記憶がある。 建具屋のご主人に話しかけられたことを薄っすらと覚えている。 建具屋さんの倉庫の裏手には 社務所 が建とうとしていた。下の写真は棟上げが終わった翌日?だったように思う。 2014年12月27日撮影-4 昔からあるものと新しいものが少しづつ風景に馴染んでいく。