大融和尚さんのこと

野波瀬の極楽寺の先々代のご住職で三隅町保育所(通称:野波瀬保育所)の初代園長先生だった方のお話し。

まず最初の話は昭和30年代中ごろのこと。

2003年01月21日撮影
 極楽寺のすぐ下で生まれ育った私は、幼少時から昆虫が好きでセミに対する愛着は人一倍強かったように思う。夏になると毎日のようにセミの鳴き声を聞いては朝からお寺の境内でてんつき(捕虫網のこと)を振り回していた。それを見られていたせいかどうかは分からないが当時の大融和尚さんが時々ではあるが私の家までセミを捕って持ってきてくださっていた。

当時の記憶だけで園長先生の顔を描いてみたので、まったく違っていたらご勘弁ください。
私の記憶の中の「大融和尚」と「ニイニイゼミ」
 今となってはお礼も言えず、当時のことを思い出しては懐かしむばかりである。
ところで今思うとどうやって和尚さん(園長先生)がセミを捕っていたのかが気になっていたのだ。「てんつき(捕虫網)」を持っていらっしゃるようには見えなかったし、生きたセミをたしか紙袋(菓子袋?)に入れて戴いていたと記憶している。



当時の三隅町保育所

2014年12月27日撮影

2018年02月25日撮影-1

2018年02月25日撮影-2



そしてもう一つの話はさらに過去の昭和29年(1954年)の事だ。

昭和29年の広報の切抜き
「三隅の国民外交者 池信氏」という三隅町広報の記事を見つけ、その内容に驚いた。
少しばかり読みづらいので下記に原文に近い形で書きだしてみた。

三隅の国民外交者池信氏
「国際的に結ばれた美しい師弟愛」
話は12年前にさかのぼる太平洋戦争の真只中勇躍出征された池信大融氏はビルマ戦線に於いて宣撫(せんぶ)工作員として当地の少国民に日本語の指導されていた。指導期間は僅かであって終戦と共に池信氏は帰還され経過した。
漸く当時の思い出が、忘れ勝ちとならんとする時、教えを受けたその中の、一少年はその後高等教育も、終え去る八月日本視察旅行に来ることになった。彼は十二年前の日本語先生「イケノブ」を忘れることが出来ず日本に行ったら、必ず恩師に会いたい会える喜びをいだいて途中幾回となく日本向放送によって先生の住所を探し或は自分の旅行先を通報し再会を望んで止まなかった。終に池信さんも去る八月十二日神戸まで出向かれ帰国乗船の寸前終に岡山に於いて面会された。今こそ立派に成人した彼も涙を流し池信さんにいだきついて喜んだとのこと、眞に国境を越えた師弟愛、兎角世界平和、文化国家を唱える日本でも薄らぎつゝある教育的師弟関係が、国際的に於いて実現されたこと、先生池信氏の人格もさることながら教えを受けしビルマ一青年の師に対する敬愛の情もって我々の鑑みとすべきではないでしょうか。
ビルマ青年よ益々多幸あれ
(三原生)
【参考】
宣撫工作員:被占領地住民に対して映画、演劇、びら、新聞、ラジオなどの媒体を駆使し、あるいは住民の衣食住、衛生、医療、教育などを保障することで占領地の統治を謀った。
当時の表現は「宣撫工作員」となっているが「宣撫官」と書いて欲しかった。

園長先生はビルマ(現ミャンマー)で日本語の先生をされていたんだ、ということを今の時代に知った。

私が想像するに大融住職はビルマの子供たちにもセミを捕ってあげていたのではないか?
そしてそこでセミの捕り方が上手くなられたのではないか。

ビルマのセミは大きかったに違いない。

【後記】
同級生に「てんつき」と言っても通じなかったが、野波瀬の独自の言葉だろうか?

どうしてもここに書き留めておきたかったプライベートな話。

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