投稿

4月, 2018の投稿を表示しています

岳山と鉄割山を下から眺める~その2

イメージ
以前、「岳山(岳の山)と鉄割山を下から眺める」という投稿をした。 この岳の山というのは、私のお気に入りの低山(343.9m)でいろいろな場所から眺められてさらに絵になる格好の良い山だ。 今回は「その2」ということで下東方からの眺めだ。 (実際は何度も登場しているのだが2回目として挙げた) 2018年04月28日撮影-1  無風状態の三隅川に映りこんだ岳の山と鉄割山(右後ろ:490m)の影がきれいに撮影できた。 最近知ったのだが、浅田小学校の卒業生はみんな「鉄割山」を知っているそうだ。いつかその理由を聞いて面白い話だったらここに残そうと思う。 2018年04月28日撮影-2 2018年04月28日撮影-3 本当にきれいで観ていて飽きない。 ところで先月に頂上まで登った時の山頂の様子をもう一度残しておこうと思う。 2018年03月18日撮影-1  地形図で見るとこのリュックを置いた辺りが標高343.5m地点になるようだ。 辺りはまったく風景が見通せない状態だった。 ということで登ったルートを想いながら下から眺めるのも一興だ。 岳の山山頂の様子 2018年03月18日撮影-2 今回撮影していて目の前で雉の鳴き声がした。すぐにシャッターを押したものが下の写真。(場所としては上東方) 2018年04月28日撮影-4 今年はいろいろな場所で雉と出会った。それもオスばかりだ。ほんとうにきれいな鳥だ。

今の野波瀬の風景が出来た頃

イメージ
県道野波瀬港線 が出来て間もなく 野波瀬漁協会館 が完成した。 昭和49年(1974年)のことだ。 狭かった野波瀬の本通り?を避けて出来た新道は瞬く間に三隅の主要道となり大型のトラックやバスが行きかうようになった。 中でも記憶に残っている大型車は、昭和60年代初頭より現れ、毎日のように見た「 イカ参上! 」(「活きイカ参上」だったか?)と大きく描かれた大型トラックの登場だ。 当時の野波瀬漁協が大変な労力を費やして、活きたままのイカを出荷輸送するシステムを作り出したのだ。 早朝の暗いうちからゴーーー!という音でやって来る大型トラックはとても恰好よく見えた。 三隅町の広報より-1  昭和49年7月?の広報 三隅町の広報より-2 そこで3年前の風景を眺めてみる。 野波瀬漁港へ向う旧道との分岐点辺り 2015年04月04日撮影 野波瀬漁港線の終点 2015年03月29日撮影 旧防波堤から観た野波瀬漁協会館 2015年06月07日撮影 今の野波瀬の風景の元となる「かたち」が出来て44年が経った。 狭かった旧道は今見ると、記憶よりもさらに狭く感じられ、その昔小型のバスが入っていたと思うと信じられないくらいだ。 その後バスが少し大型になり、新道が出来る前までは今の厄神様の手前の回転場でUターンしていた。 記録として残しておこうと思う。

冬作の麦

イメージ
田に水が引かれるこの季節、冬作の麦がもうすぐ収穫を迎える、と聞いたことがある。 4年前に撮影した麦畑の写真を見つけて思い出した。 2014年05月06日撮影-1 2014年05月06日撮影-2 2014年05月06日撮影-3 この麦(大麦?)が収穫後に何に使われていくのかわからないが「麦」と聞いて思い出すものは麦茶、麦ごはん、麦みそくらいのことだ。 農業のことはまったくの素人だが里山の風景の変化はとても敏感だと思っている。 「麦秋(ばくしゅう)」という意味深い言葉がある。 決して季節の秋のことでは無く、麦を収穫する初夏のことを意味する。 冬作の麦の収穫が終わると田んぼに水を引いて田植えが始まる、そうすると農家の生活リズムが一挙にあわただしくなっていく。 このような風景をこの先もずっと見れることを切に祈っている。

三隅町役場のある風景~その6

イメージ
昨年の春に「三隅町役場のある風景」をいくつかアップしていたが、その中で「 岳の山(だけのやま) 」を背景にした役場の建物が写っている写真を2枚ピックアップしてみる。 2015年05月02日撮影  とってもお気に入りの1枚。 曇ってはいるが岳の山のエッジ(輪郭)がとてもきれいに写っている。先日の登山(山行き)のきっかけになった1枚だ。これを見て旧三隅町のほぼ全域が頂上から見渡せるのでは?と思ったわけだ。 (頂上の伐採がされていなかったので頂上から何も見えなかった。) 2016年12月06日撮影 こちらは解体が始まった頃の写真。曇っていることが寂しさに拍車をかけている。紅葉したイチョウが物悲しくもある。 2016年06月11日撮影-1 この写真は左側に天井山が映りこんでいる。 右側に三隅中学校舎が控えている。 2016年06月11日撮影-2 三隅川の対岸の土手から撮影したもの。 すべてもう見れない風景となってしまった。

ツバメに思うこと

イメージ
毎年のようにやってきては巣を作って子育てをするツバメだが、やってくるたびに思うことがある。 毎年6羽程度が巣立っていき、南(フィリピンか?)へ越冬に渡っていくのだが、同じ場所(我が家)に帰ってくるのは昨年来た親なのか、それとも昨年羽化した子供なのか、もし子供だったら6羽の中の1羽だけが帰ってきているようだが他の子どもたちはどうしているのか?近所に別の巣を作っているのか? というように分からないことがいろいろとある。 2018年04月1日撮影-1 巣から嘴でつまんで外に排出された卵の殻。(羽化した後) 2016年06月28日撮影 実は昨年、門灯の上に巣を構えていたが、目立ちすぎるため?かカラスに襲撃されて巣ごと破壊されてしまったのだ。当然生んでいた卵はすべて奪われてしまった。 それでも怯まなかったツバメのツガイはもう一度最初から巣作りをして見事に6羽を羽化させて育て上げた。 そのために今年はツバメがやってくる前に、簡単な木箱を門灯の上に作って置いたらそれを察したのか木箱の中に巣を作り始めた。 2018年04月1日撮影-2 2018年04月24日撮影 昨年と違う環境なので巣作りをしないかと思ったがコツコツと造り上げていった。 しかしながら今年もカラスが様子をうかがいにやって来ている。

城山のこと

イメージ
長門市役所の裏手にそびえる小さな小高い山がある。その名を 城山(じょうやま) という。標高は約48mだ。 その名のとおり、昔(1400年~1500年の頃か?)は お城 があったようだが城主がはっきりしていないようだ。 山の形から「亀山」とも呼ばれたらしく、太古の時代はこの山麓まで深川湾が入りこんでいたと記録にあるらしい。 江戸後期の記録「風土注進案」には「山上に櫓(やぐら)、升形(ますがた)、殻堀(からぼり)等の跡あり。大内家御時代、弘盛公の居城なるよし、申し伝え候」と記述があるらしいが確証はないとのこと。 山陰本線と城山 2014年08月25日撮影  雪景色と城山 2004年01月22日撮影  長門鉄道部運転支所の裏手に見える城山 2012年07月19日撮影  今は無き転車台の奥に控える城山 2015年12月26日撮影 過去には転車台のすぐ向こう側に扇形車庫が建っていて城山は見えづらかった。 ところで・・・ 山陰本線と美祢線の両方が跨るこの踏切の名前は「 城山踏切 」という。 2014年05月29日撮影 私が幼い頃、この踏切は踏切監守が居て手動で遮断機を降ろしていた記憶がかすかに残っている。信号てこ扱い所とのやり取りで遮断する、人命に直接関わるハードな仕事だったに違いない。 (昭和の時代、深夜に通過する急行列車などもあったから本当に大変だったと思う。) この城山と市役所の建物、さらに旧デパートまるみの茶色いビルが旧長門市街の象徴的な風景を担っていた。

穏やかな日暮れ時の風景

イメージ
昨日の初夏のような暑さを感じた日の夕暮れ時、歪んだ太陽が沈んでゆく風景を堪能できた。 小波橋より撮影 2018年04月21日撮影-1  県道285号線跨線橋より撮影 2018年04月21日撮影-2 2018年04月21日撮影-3 同時刻に小波橋より東の風景を撮影。 2018年04月21日撮影-4 夕日が沈んでいく時刻に東側を臨むとカメラの性能のおかげ?か昼間のような風景が撮影できた。 それにしても鏡のような川面はきれいで里の山々はハイカラさんだ。 すれちがう散歩をされている方々を見ながら「黄昏時」の意味合いを実感できる時間だと思った。

昭和52年の郵便局のお知らせ

イメージ
昭和52年の広報に三隅郵便局からのお知らせを見つけた。気になってその記事に注目してみた。 S52.3三隅広報より 出足の文章が最高のキャッチフレーズだ。 「切手は最小面積における最大芸術品・・・」 少しだが芸術色豊かな一例を見てみよう。 日本切手カタログより 日本切手カタログより 日本切手カタログより 中学生の頃、どんな人物か知らないまま切手のおかげで名前だけでも文化人を知った。 何を見ても素晴らしい芸術品だ。 ところで8年前に「切手の博物館」に行ったときのこと。 2010年05月03日撮影-1 たまたま近くまで行ったので入ろうとしたら連休で休館?していた。 こんなことにはとことん運がない。 2010年05月03日撮影-2  近くの学習院大学正門とその南側の学習院下のコンビニ。 2010年05月03日撮影-3 ここはなんか面白いエピソードがあるところらしい。 もう一つとっても気になるのが 「 転出、転入届は必ず郵便局へ 」というメッセージだ。 郵便局へ提出するのは「転居届」であって「転出・転入届」は役場だと思っていたが、この時代にはこのようなシステムがあったのだろうか? 記憶にないぞ! 郵便局へ届けると役場にも届けてもらえるシステムがあったのかとも思ったが、何かと情報にうるさい今の時代には考えられないことだ。 しかしながらとってもおおらかな時代ともいえる。

黄波戸から観る仙崎・深川

イメージ
黄波戸の集落の境川からの入り口に「長崎」という地名がある。 「長崎」と書いて「 ながさこ 」と読むのだが私が初めて知ったのは30年以上前のこと、ここに釣り好きにはたまらない奇麗な浅瀬(岩場)があり、そこでカサゴ(地元では「ボテコ」)釣りをしていて地元の方からここが「 ながさこ瀬 」と聞き驚いたことがあった。 (今は禁漁区らしいです。) 2018年04月19日撮影-1  長崎県の方が見たらびっくりするかも? 上の写真の部分拡大 なんか味のある影絵?である。 そして道沿いの深川湾に下りてみると絶景が待ち受けている。 2018年04月19日撮影-2  正面の青海島に聳える高山(約320m)はこの方角からの眺めが一番! 2018年04月19日撮影-3  仙崎から深川方面へと目をそらす。 2018年04月19日撮影-4  さらに上の原へと回り込む。 2018年04月19日撮影-5 春霞か黄砂かわからないが霞んでいて、遠くの山々がきれいに見渡せなかったが贅沢なくらい絶景だと思う。

夕食(ゆうげ)の頃の風景

イメージ
昔の「夕食(ゆうげ)」というと辺りが暗くなりはじめる頃の時間を言ったと思うが現代社会においては各家々でそれぞれだ。 最近、「晩ご飯」に対して「夜ご飯」という言い方をする方がいる。若い世代に多いように思うが、夕食をとる時間的なギャップからか、はたまたテレビなどのメディアの影響かわからないが都会に居住している方ほど夕食の時間が遅いように感じる。それで「晩」より「夜」なのかもしれない。 昨年の秋のこと。 その暗くなり始めの時間に家の窓からもれる電灯の明かりと山のフォルムが撮りたくて夕方に出かけてみたことがあった。 2017年10月31日撮影-1 ところが 山裾の輪郭がくっきりしている時間は未だ家の灯りが点いていなかった。山を背景にして人々の生活感のある写真を撮りたかったのだ。 何もかもが失敗の連続だ。 2017年10月31日撮影-2 2017年10月31日撮影-3 そこでタイトルを変更した。 「岳の山とヒコーキ雲」 「岳の山に陽が沈む」 どうだろう?

季節外れの写真

イメージ
先日切り取られた「メタセコイア?」のことをアップロードしたが、昨年の秋に撮影したまだ大木が残っている頃の写真があったので季節外れながら載せてみる。 2017年11月30日撮影-1  とっても好きな場所から撮影できた1枚で、手前から三隅川を跨ぐ鉄橋、大木2本と三隅中学校舎、そして後ろに拡がる権現山のすそ野。 この時は1本無くなるとはまったく予想できずにいたがこの写真を見てホッとした。 2017年11月30日撮影-2 1枚撮った直後に現れた1両編成の朱色の列車。 単線・非電化区間は線路構造がシンプルで線路の上に電線が無いので里山などの田舎の風景に良く似合い、この写真のようにラッピング塗装されていない車両の方が違和感がない。 昨年よりトワイライトエクスプレス瑞風がこの区間を通っているが割と違和感なく深緑が似合っているように思える。 昨年のこの頃に、紅葉したイチョウの木をバックに瑞風の撮影に失敗したことを思い出した。 (一眼レフカメラのセンサーの故障?だった。)

「ボックス公衆電話」と書いてある

イメージ
旧三隅町の時代、電電公社が設置した ボックス公衆電話 が長門三隅駅前に出来た。昭和38年(1963年)の夏のことだ。 S38年三隅広報より 今と同じように隣に郵便ポストが並んでいる。ポストの背が今より低いように思える。 電話機がまだまだ町内にあまり普及していなかった頃だと思うが、当時の人々がこの中に入って電話をかける様子を想像すると楽しくなる。 足元が透けていないのも良い。 後ろに当時の木造の駅舎が少しだけ写っていてとても懐かしく思える。 出来ればこの写真をカラー写真で見たかった。ボックスの色を見たいのだ。薄っすらとした記憶の中で天井の色はたぶん朱色か赤だと思う。 最近の様子と比べてみると・・・ 2017年06月19日撮影 随分とハイカラになってきている。 当時の長門三隅駅はというと以前から何回かここに残してきたが、下り線ホームの向こう側に3番線が待機線として在った時代で、2・3番線のホームに屋根付きの小さな待合室が在った。 下の写真は以前アップしたものだが2014年に跨線橋から撮影したもの。 (当時は跨線橋もありませんでした。) 2014年06月29日撮影 その待合室の中で早朝の4時前頃?に下ってくる「急行あきよし」を待っているときの記憶が今でも鮮明に残っている。こんなに早い時間から駅舎にあかりが灯り、駅員さんが改札や窓口に居る風景ってローカル線ではもう見れない。 (「急行あきよし」はなんと長門三隅駅に停車していたのだ。) またいつかこの続きを書いておくつもりだ。 話は戻るが急行あきよしが通っていた頃にもたぶんこの電話ボックスが在ったと思っているが、中にどんな電話機が設置してあったのか全く覚えていない。 「 ボックス公衆電話 」のことでした。