豊原から広田への道

街道筋とは少し外れた道になるが、三隅村の頃からの主要道であったはずの一つに豊原と広田を結ぶ道がある。

昭和17年発行 1/50000地形図
この地形図を見る限りは豊原は二条窪川に沿ってかなりの人家が密集していた様子が伺える。
広田(廣田)も少ないながら何戸かの民家が在った様子。

この道を今現在のイメージで追ってみた。
2020年01月07日撮影-1

2020年01月07日撮影-2

2020年01月07日撮影-3

2020年01月07日撮影-4
 たぶん黄色い線で沿ったルートであろう。
2020年01月07日撮影-5
いつの時代から存在する道なのかは分からなかったが、この広田平野における最古の道に違いない。

この写真にある山陰本線(当時は美禰線)がここに敷かれたのは大正13年の暮れであるから、ちょうど明倫小学校の旧木造校舎の建設が始まった頃だ。ひょっとしたら当時の豊原の小学生はこの道で通学していたのかもしれない。そして中原篷女史は間違いなくこの道を通って往診していたはずだ。リヤカーに乗せられて、又は馬に引かれて、さらに自転車に乗っての往診を想像するとなんとも格好が良い。

【参考】
明倫小学校は明治17年に豊原小学校と市小学校が合併して開校した。正確な場所は不明だが現在の場所に近いはずだ。
大正13年の暮れから大正15年(昭和元年)にかけて木造校舎を完成させた。(「移転・改築」と記されている。)
ちなみに野波瀬に渡る小波橋(当時は野波瀬橋?)は昭和元年に完成したと記録にある。最初の古い地形図に記された位置のようだ。(1/50000尺なので正確な位置が分かりづらい。)

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