大正13年の三隅村のこと~その1

先日、三隅村だった時代の貴重な小冊子のことをプロローグとして書いたが、その冊子の広告ページがとても貴重な資料に思えて少しづつ此処に疑問などを交えて残していくことにした。

まず最初の広告だが・・・
中野回漕店」となっている。
広告ページの1枚目

お店の住所が記述されていないのでお店自体が澤江に在ったのかどうかが不明だが(船着場は「澤江發」となっているから在ったはずだ。)

毎日定期便で
  1. 黄波戸
  2. 仙崎町
  3. 通村
  4. 萩町
の4箇所へ2回航行していたことが書かれている。

現代の地図でルートを想像して描いてみた。

そこで
(疑問その1)
汽車連絡」とはどう云う連絡手段だろうか?ということなのだが、大正13年に長門三隅駅が長門市駅(当時の正明市驛)からの美祢線として延長され開業したばかりの時代に、豊原の駅までどのような交通手段で連絡していたのか?それとも「歩いて行けますよ」ってことなのか?
まだ自動車は無かったと思うが自転車(グロリア號?)で行き来していたのかもしれない。


(疑問その2)
見島汽船澤江荷客取扱」とは?
長門三隅驛までしか鉄道が無いのに見島への連絡が出来たということは「萩町」への1日2回の定期便で連絡していたということになるが当時の中野回漕店の舟は船外機などの動力源(内燃機関や蒸気船など)があったのだろうか?。ディーゼルエンジンが搭載されていたとしたら燃料は何処で補給していたのか?とか。
(とっても失礼なことを書いているのかもしれないが想像するとたくさんの疑問が湧いてくる。)


(疑問その3)
定期便の「黄波戸行き」はなぜ必要だったのか、という疑問だが黄波戸駅も昭和3年に美祢線の延長で出来た驛だと聞いたことがあるが、大正末期に沢江と連絡する便が必要に思われた根拠が知りたいと思う。こういったところに歴史的な小さな発見がありそうな気がする。
(例えば、黄波戸で造っていたお酒か醤油が必需品だったとか、境川辺りの道が無くて正明市から黄波戸に行けなかったとか何らかの理由があったはず。)


こういったことは当時の時代背景をしっかりと勉強し直さないと真実が見えてこない。


読んでいくうちに判ったことが・・・
この貴重な小冊子は「長門三隅驛開業記念」の一環で三隅村役場から出版された冊子と思える。

次回「その2」は開業当時の「長門三隅驛」のことを書いてみる。



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