続・向山塾の話
昨年の夏に三隅地区のボランティア活動の中で「向山塾」の周辺の伐採と清掃が行われた。同日催されたウォーキング(三隅八幡宮から生島まで?)と共に私も参加したかったが、仕事と重なって行けなかった。
仕事の終わった後に行ってみたらすでに解散された後だった。残念!
この山道を進むと久原山に登っていく。
以前にも書き込んだが、「向山塾」は市小学校(いちしょうがっこう)の前身にあたり、その後に豊原小学校との併合により「明倫小学校」へと移り変わる。
実は本日、大変お世話になっている方から「家中で探し物をしていて偶然発見した」という小冊子を見せていただいた。
その中の一部に「向山塾の趾」という記事が掲載されていた。
大正13年11月3日、山口県大津郡三隅村役場発行の小冊子で、大変貴重な資料と思われる。
資料の写真(切抜き)は読みづらいので記述の文章を読みやすくするためにパソコンで入力してみた。
【参考資料】
現場に建植されている説明板と微妙に違っているので真偽は別として資料として此処に残すことにした。
この小冊子からまだまだ面白い記事や広告が見つかったので少しづつ此処に収めていくことにする。
【後記】
習字や珠算を教えていた向山塾趾の入り口近くに現代のそろばん塾がある。何かの繋がりか、因縁か?
楽しくなってきたぞ・・・。
仕事の終わった後に行ってみたらすでに解散された後だった。残念!
2017年08月27日撮影-1 |
2017年08月27日撮影-2 |
2017年08月27日撮影-3 |
2017年08月27日撮影-4 |
実は本日、大変お世話になっている方から「家中で探し物をしていて偶然発見した」という小冊子を見せていただいた。
その中の一部に「向山塾の趾」という記事が掲載されていた。
小冊子の切抜き |
資料の写真(切抜き)は読みづらいので記述の文章を読みやすくするためにパソコンで入力してみた。
【参考資料】
向山塾の趾
県道より岐れて(分かれて)小波橋を渡り野波瀬に至る道路の傍、字に向山あり。
慶應三年(西暦1867年で次の年が明治元年)萩の士山本清十(梅庵)、有志の後援により創設するものにして、村田清風の歿後(没後)、尊聖堂(村田清風が三隅山荘内に開いた私塾)の扁額(創始者の想いを掲げた額)を揚げて其の名を稱せしことあり、漢學のほかに、習字及簡易なる珠算等を敎ふ(教える)。生徒数一時五六十人を算し、他郡より来遊するもの十数人を越えたり、山本清十官命に依り東上するに及び、馬島春海之を継ぐ。門下知名の士に柴田家門、楫取道明、石川重玄、原田良太郎等あり。学制の頒布により三隅市小学の設立と共に廃塾す。
現場に建植されている説明板と微妙に違っているので真偽は別として資料として此処に残すことにした。
この小冊子からまだまだ面白い記事や広告が見つかったので少しづつ此処に収めていくことにする。
【後記】
習字や珠算を教えていた向山塾趾の入り口近くに現代のそろばん塾がある。何かの繋がりか、因縁か?
楽しくなってきたぞ・・・。
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