三隅町の圃場整備のこと

三隅町の時代の昭和50年の夏ころから始まった県営圃場整備事業という農業改革政策があったが、森澤町政の終焉の頃である。

この圃場整備(ほじょうせいび)というのは一言で言うと、丸かったり歪んだりした農地を四角く整備して大型の農業機械を導入出来るようにして農作業の効率化を謀ることを目的とした整備事業だ。(私の勝手な理解)

事の発端は昭和48年に国が打ち出した農地区域と市街地又は商業区域の分離政策の中で、三隅町が「農業振興地域」の指定を受けたことに始まったと思うのだが、この農地改革という事業はとてつもない予算なしには絶対に完成しない予想不測の事業だと思う。


資料によると、昭和50年からスタートした整備事業は17年の年月をかけて平成2年に竣工したことになっている。
つまり木村町政全期にかけて引き継いだ形となっている。

その木村庄町長の記銘された「圃場整備竣工の碑」が県道28号(小郡・三隅線)の落志畑・滝坂間に建立されている。

2017年12月23日撮影-1

2017年12月23日撮影-2

2017年12月23日撮影-3
ここで私が疑問に思っているのが、確かに圃場整備はそのモデル事業も中畑近辺から施工され、上地区を中心に行われたと聞いたことがあるが
なぜその竣工の碑が此処なのか?という疑問だ。

何かの経緯があったに違いないが、当時としては莫大な予算を投じて施行した町の歴史的事業の竣工の碑がひっそりと建立されているような風景に見えてしょうがないのだ。

施工最後の地?なのかもしれないがちょっと控えめすぎる気がする。

発案時の予定竣工までできなかった?とか予想外の追加予算が必要だったとかの理由でひっそりと碑を建てるしかなかったかのように謙虚に見えてしまう。

私は農業経験がないが「ほ場整備」のおかげで見事な田園風景が出来ているし、行政側からしても治めやすい土地(農地)になっているような気がする。

さらに田園環境としても「有害獣被害」を除けば見事な里山が多い町だと思っている。

【後記】
三隅町の頃の町政
森澤雄治(もりさわゆうじ)町政:昭和42年~昭和52年
木村 庄(きむらしょう)町政:昭和53年~平成元年


コメント

このブログの人気の投稿

住友セメントのベルトコンベア

山口ニュージーランド村の記憶

アトラス長門の記憶