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大正13年の三隅村のこと~その3

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3回目の話は「表紙」と「最終ページ」のことだが、裏表紙は何も書かれていない白紙なので割愛する。 まずは「表紙」のタイトルと図柄のこと。 表紙  冊子のタイトルが「 三隅志要 」となっている。 背景はたぶん「村田清風宅」の「三隅山荘」だろうと思う。 黒マジックで「大正13年発行」と後から書かれているが出所がはっきりしてこれも良しとする。 それよりも私が興味を持ったのが最終ページの「発行者」などの情報だ。 最終ページ 著作兼発行者・印刷者: 鈴木政槌 印刷所: 鈴木文明館(舘) 住所: 山口県大津郡深川村大字東深川・・・ 発行所: 山口県大津郡三隅村役場 となっていて、その右側(前頁)は、たぶん自箇所の宣伝広告だと思われるページとなっている。 「鈴木商店」・・・ 現在の 鈴木印刷 さんの前身だと推測する。 「 活版石版印刷 」、「和洋諸紙文房具」、「 絵葉書 販売」の部分だが活版石板印刷とは木版刷りの後を担った現代のオフセット印刷の元となった印刷技術らしく、鈴木政槌さんというのはその職人さん兼社長さんのことだと推測。 「絵葉書販売」とも書かれているがどんな絵ハガキか見てみたい。大正ロマンの詰まったとっても奇麗な絵葉書だったに違いない。 (鈴木印刷さんに当時の絵葉書が残っていないかな?) それとお店の住所が「 長門國 深川正明市」となっており、さらに電話番号が「正明市34番」と書かれている。以前書き込んだことがある交換手へ番号を口で伝える時代のものだ。 それにしてもゴシック体や明朝体などの字体を見事に振り分けた印刷で素晴らしい出版物だと思う。 次回は旅館・仕出し・割烹などの広告ページのことを書いてみる。

大正13年の三隅村のこと~その2

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三隅村の話のその2は「 長門三隅驛 」の開業時の話と疑問だ。 開業当時の長門三隅驛 この写真を見ると、開業当初から上下線と3番線の待機線があるように見える。駅舎の線路側にホームから線路へ降りる階段らしきものや駅舎の西には便所らしき建物、向こう側には現在の県道(旧国道191号)も少しだが写っている。ホームに佇んでいる二人の紳士?は試運転時の乗客か駅員かわからないが立派な着物を着ているように見える。 (この小冊子は大正13年10月25日印刷、大正13年11月3日発行となっているからこれらの駅の写真は開業日「11月3日」以前のものということになる。) 出来れば列車(汽車)の姿が写っていて欲しかった。 拡大図 3番線?の南側に橋げたの構造物(鉄橋の部品?)のようなものが見えるが、ひょっとしたら三隅川橋梁を作るための材料か? 駅前ロータリーの東側に建設中の2階建ての木造屋が見える。ひょっとしたら白藤医院の駅前診療所かもしれない。 市の白藤医院の広告 上の広告を見ると診療所が「駅前に建設中」と書かれているからだ。 その後、戦火による焼失か何かでもう一度道路と反対側に建設されたのかもしれない。 (これは私の勝手な推測だ。) 「三隅市」と書かれた住所もびっくり! 三隅八幡宮のある「市(いち)」に在ったようだ。 1枚の写真から当時を想像すると楽しいことばかりでワクワクしてきた。 下記の文章はこの小冊子の中に紹介されている「長門三隅驛」の紹介文だ。 三隅停車場 豊原は本村の中枢部落にて、戸数二百を有す。停車場は其の西端にありて、駅前の展望甚だ佳なり。試に眼を放てば、三隅平野脚下に展開して、萬頃の田園、散布せる遠村近落、悉く一眸に集る。中央百龍の蜿々たるは三隅川にして、其の海に逸する所、三隅湾鏡の如く湛えて仙崎町の瓦甍夢の如く蒼水に浮かぶ、青海高山の秀峯は、先大津の連山と相對して、一大名画の遠景をなす。光景雄大なり。 とにかく風光明媚で真っ直ぐな線路を含めてきれいな眺めを拝めたようだ。 大正13年の11月3日に開業した「長門三隅驛」は美祢線の延伸にて完成した駅で、飯井方(萩方面)には未だ鉄道が敷かれていなかったか工事中だったかという時代だ。 開業記念の「野波瀬浦」の写真 当時の日本の情勢はという

大正13年の三隅村のこと~その1

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先日、三隅村だった時代の貴重な小冊子のことをプロローグとして書いたが、その冊子の 広告ページ がとても貴重な資料に思えて少しづつ此処に疑問などを交えて残していくことにした。 まず最初の広告だが・・・ 「 中野回漕店 」となっている。 広告ページの1枚目 お店の住所が記述されていないのでお店自体が澤江に在ったのかどうかが不明だが (船着場は「澤江發」となっているから在ったはずだ。) 毎日定期便で 黄波戸 仙崎町 通村 萩町 の4箇所へ2回航行していたことが書かれている。 現代の地図でルートを想像して描いてみた。 そこで (疑問その1) 「 汽車連絡 」とはどう云う連絡手段だろうか?ということなのだが、大正13年に長門三隅駅が長門市駅(当時の正明市驛)からの 美祢線として延長され開業したばかりの時代 に、豊原の駅までどのような交通手段で連絡していたのか?それとも「歩いて行けますよ」ってことなのか? まだ自動車は無かったと思うが自転車(グロリア號?)で行き来していたのかもしれない。 (疑問その2) 「 見島汽船 澤江荷客取扱」とは? 長門三隅驛までしか鉄道が無いのに見島への連絡が出来たということは「萩町」への1日2回の定期便で連絡していたということになるが当時の中野回漕店の舟は船外機などの動力源(内燃機関や蒸気船など)があったのだろうか?。ディーゼルエンジンが搭載されていたとしたら燃料は何処で補給していたのか?とか。 (とっても失礼なことを書いているのかもしれないが想像するとたくさんの疑問が湧いてくる。) (疑問その3) 定期便の「黄波戸行き」はなぜ必要だったのか、という疑問だが黄波戸駅も昭和3年に美祢線の延長で出来た驛だと聞いたことがあるが、大正末期に沢江と連絡する便が必要に思われた根拠が知りたいと思う。こういったところに歴史的な小さな発見がありそうな気がする。 (例えば、黄波戸で造っていたお酒か醤油が必需品だったとか、境川辺りの道が無くて正明市から黄波戸に行けなかったとか何らかの理由があったはず。) こういったことは当時の時代背景をしっかりと勉強し直さないと真実が見えてこない。 読んでいくうちに判ったことが・・・ この貴重な小冊子は「 長門三隅驛開業記念 」の一環で 三隅村役場

8年前の雪の日

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8年前に長門市としては結構な量の雪が降った日のこと。 所用でショッピングセンター「 ウェーブ 」に行ったついでの撮影だ。 確かこの写真を撮影したのは午後2時ごろだったと記憶しているが、市内で午後にこれだけの雪が残っているのは過去の経験の中ではあまりないと思う。 2010年03月10日撮影-1 2010年03月10日撮影-2 2010年03月10日撮影-3 ベスト電器の建物がちょっと懐かしく見える。 2010年03月10日撮影-4 今はベルコ?の場所にパチンコ屋の看板がある。 2010年03月10日撮影-5 昨年だったか、解体されたとんがり三角屋根のメガネの三城が見える。 2010年03月10日撮影-6  この向きの風景も今と違う。 2010年03月10日撮影-7 昼過ぎなのに駐車場に車の姿が見られない。 たぶん入り口のスロープが凍結して登れないがためだと思う。 (店休日ではありません。) 2010年03月10日撮影-8 国道316号線からの風景だが遠くに青海島の高山が聳えている。その下に小さく荒川石油深川店の出光の看板がかすかに写っていた。ここも今は撤退されて無くなっている。 単純に8年前と言ってもこの頃に中学生になった子どもたちが成人式を迎えるほど時が経っているわけだが、自分の中ではちょっと前のことなのだ。 じっくり見ると雪景色よりも街の風景の移り変わりの方が気になってちょっと寂しくなってきた。

解体から一年が経った

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昨年の今頃三隅町役場の建屋が解体され、その跡地が 完全に更地になってちょうど1年 が経過した。 2017年02月01日撮影-1 2017年02月01日撮影-2 下の写真は完全な更地になる直前のもの。 2017年02月19日撮影-1 2017年02月19日撮影-2  以前にも書き込んだが、建屋の裏手に在ったイチョウの木が撤去されている。 2017年02月19日撮影-3 2017年02月19日撮影-4 早いもので解体されてあっという間の1年だったが惜しむらくはその 風景の良さ と 建屋の格好の良さ が見れなくなったことだ。 本当にすばらしい風景だったと思う。 昭和35年(1960年)に改築されたこの庁舎は57年の間ここでその役割を果たしてきたわけだ。昨年の暮れにこの時の改築に携わった方の貴重なお話を聞けて余計に感慨深くこの風景を思い出してしまった。 2003年02月03日撮影 15年前の琴影橋から観た役場の風景 2012年06月12日撮影 6年前の明倫小学校旧門から観た風景 此処は三隅町の礎を担ってきた場所だ。

タバコ屋のこと

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コンビニエンスストアに圧されて町中(まちなか)で見かけることが少なくなった「タバコ屋」だが、風景として観るととっても味わいがあるように思える。 今まで撮ってきた中で想い出のある「タバコ屋」を記録として残しておきたいと思う。 今回は、「タバコ」を売っている、又は過去に売っていたお店を「タバコ屋」としてあげてみた。 (本来はタバコ屋では無いお店もあるが許しを請いたい。) 2014年06月19日撮影 2017年9月23日撮影 2017年8月22日撮影 2017年03月12日撮影 2006年10月15日撮影 住所としては萩市だがお気に入りの風景のため編入。  2017年03月12日撮影 2014年12月14日撮影 2014年12月07日撮影 2007年09月20日撮影 2010年10月17日撮影 2013年06月23日撮影 2013年05月03日撮影 2003年01月21日撮影 2012年11月11日撮影 2014年12月17日撮影 2008年04月03日撮影 すべて以前ここで紹介したところばかりだが、他にも過去にタバコを売っていたお店があるのだろうが思い出したら追加で残していく。 ところで・・・ 昭和55年(1980年)の三隅町広報に下のような記事が掲載されていた。 昭和55年10月の広報より この記事を見て風潮や常識というものは時代と共に変わっていくことを感じたが、これより以前はおおらかな時代でもあったような気がする。

続・向山塾の話

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昨年の夏に三隅地区のボランティア活動の中で「 向山塾 」の周辺の伐採と清掃が行われた。同日催されたウォーキング(三隅八幡宮から生島まで?)と共に私も参加したかったが、仕事と重なって行けなかった。 仕事の終わった後に行ってみたらすでに解散された後だった。残念! 2017年08月27日撮影-1 2017年08月27日撮影-2 2017年08月27日撮影-3  この山道を進むと久原山に登っていく。 2017年08月27日撮影-4 以前にも書き込んだが、「向山塾」は市小学校(いちしょうがっこう)の前身にあたり、その後に豊原小学校との併合により「明倫小学校」へと移り変わる。 実は本日、大変お世話になっている方から「家中で探し物をしていて偶然発見した」という 小冊子 を見せていただいた。 その中の一部に「 向山塾の趾 」という記事が掲載されていた。 小冊子の切抜き 大正13年11月3日、山口県大津郡 三隅村役場 発行の 小冊子 で、大変貴重な資料と思われる。 資料の写真(切抜き)は読みづらいので記述の文章を読みやすくするためにパソコンで入力してみた。 【参考資料】 向山塾の趾 県道より岐れて(分かれて)小波橋を渡り野波瀬に至る道路の傍、字に向山あり。 慶應三年 (西暦 1867 年で次の年が明治元年) 萩の士山本清十(梅庵)、有志の後援により創設するものにして、村田清風の歿後(没後)、尊聖堂(村田清風が三隅山荘内に開いた私塾)の扁額(創始者の想いを掲げた額)を揚げて其の名を稱せしことあり、漢學のほかに、習字及簡易なる珠算等を敎ふ(教える)。生徒数一時五六十人を算し、他郡より来遊するもの十数人を越えたり、山本清十官命に依り東上するに及び、馬島春海之を継ぐ。門下知名の士に柴田家門、楫取道明、石川重玄、原田良太郎等あり。学制の頒布により三隅市小学の設立と共に廃塾す。 現場に建植されている説明板と微妙に違っているので真偽は別として資料として此処に残すことにした。 この小冊子からまだまだ面白い記事や広告が見つかったので少しづつ此処に収めていくことにする。 【後記】 習字や 珠算 を教えていた向山塾趾の入り口近くに現代の そろばん塾 がある。何かの繋がりか、因縁か? 楽しくなってきた

三隅町時代の工場誘致

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山本開作・浅田を主とした三隅町時代の工場誘致の記録。 誘致された年月の古い順に書くと・・・ 千銀蒲鉾株式会社 昭和42年7月 深江金属工業株式会社 昭和50年12月 山口宝株式会社 昭和52年6月 藤光蒲鉾工業株式会社 昭和55年9月 山九水産株式会社 昭和56年6月 山陽コカコーラボトリング㈱ 昭和56年6月 三隅ニット株式会社 昭和61年9月 三隅ニット株式会社(現、三隅ユニオン) 2017年09月23日撮影 2017年08月31日撮影 旧、宗頭小学校舎を一部利用 深江金属工業株式会社(現:株式会社アルミネ) 2018年02月16日撮影 2017年01月28日撮影 山口宝株式会社 2008年10月13日撮影 藤光蒲鉾工業株式会社(現、フジミツ蒲鉾株式会社) 2018年02月16日撮影 2018年02月16日撮影 山陽コカ・コーラボトリング株式会社(現、コカ・コーラウエスト株式会社) 2013年06月23日撮影 2013年06月23日撮影 2018年02月16日撮影 千銀蒲鉾株式会社 2013年06月23日撮影 2017年05月15日撮影 2018年02月16日撮影 社名が変わってきた箇所もあるが、それぞれが三隅の 歴史と風景 を刻んできた企業であり無くてはならないものばかりだ。 その建物や風景を目にした瞬間に何処なのかがわかってしまう存在になってきている。 【参考】 当時の広報に「藤光蒲鉾kk進出」という記事があったので資料として掲載する。 昭和55年(1980年)三隅広報より 山本開作の図が家の恰好をしているから一瞬途惑った。下に「国道191号線」がなかったら何の図か分からなかったかもしれない。