「急行はぎ号」のこと

今のJRが国鉄(日本国有鉄道=JNR)だったころの1972年(昭和47年)3月15日のこと。
(かすかな記憶と手元の資料での記録です。)
長門市駅を始発とする米子行きの急行列車が運行開始となった。
名前を「急行はぎ号」という。一日に一往復だったと思う。

当時のコンセプトは、山陰地区の主要都市間の産業のパイプラインの役目を果たすような肩書きがあったように記憶している。地元企業からの要請があったのかもしれないが、同年(1972年)、山陽新幹線の新大阪~岡山間が開通した時代だ。これを考慮すると、米子から伯備線を利用して岡山へ、そして大阪・東京へ、という大都市圏への輸送も確保していたのかもしれない。

おおよその路線図


ところがその3年後(1975年の3月)、長門市駅始発なのに「はぎ号」というネーミングに違和感があったのか、「急行ながと号」に変更された記憶が残っている。しかしながら乗客数が伸びなかったためかその後廃止された。


5年前の長門市駅の写真
2012年06月25日撮影-1

2012年06月25日撮影-2


当時の日本は田中角栄が「日本列島改造論」を打ち立てた年で、地方と首都圏を結ぶ大規模な高速交通網の整備や地方の工業化の促進、さらには文化の交流など今の日本の礎(いしづえ)を作ってきた時代だ。

自分が小学生だったころ、テレビやラジオから流れてくる情報が日本国内とは認識していても、どこか自分とは関係のない遠い街のことにしか思えなくって(とってもアホだったわけだ。)、例えば東海道新幹線が出来ても自分には乗れないし高速道路が出来ても将来自分が利用するようになるとも思えなかった。距離的にも時間的にも遠すぎて身近な出来事に思えなかった。汽車に乗って下関に行くだけでドキドキして前日の夜眠れなかったことを思い出した。

ところが中学生になった頃(1970年)から徐々にいろいろなものが三隅町に近づいてきた。山陽新幹線が近づいてきて、関門橋が出来て(1973年)九州が近づいて、さらには中国自動車道もどんどん近づいてきた。自分の中でラジオやテレビの情報がすべてが現実味を帯びてきたわけだ。

つづく・・・

今現在、「急行はぎ号」というと東萩駅~新山口駅間のJRバスの名称に使用されているようです。


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