2017年12月31日日曜日

大晦日の夕刻

いよいよ2017年も最終日となった。

午前中の雨も上がりやっと陽がさしだしたと思いきやすでに夕刻のあわただしい時間になってしまった。

家内に「ちょっと公民館まで行ってくる。すぐに帰る!」と伝えてカメラを片手に飛び出した。

というのは以前から冬の夕刻三隅川橋梁や公民館辺りの写真を撮影したいと思っていたのだが、悪天候や仕事の都合が邪魔をしてなかなか飛び出せなかったのだが大晦日にやっと行くことが出来た。
思いの時刻よりは少し早かったが、夕刻の雰囲気を少しだけつかむことが出来た気がする。

2017年12月31日撮影-1

2017年12月31日撮影-2

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2017年12月31日撮影-8
夕日というよりは「冬の西日」があたっている感じがするが夕刻として観てほしい。
最後の写真は旧三隅町役場が無いのが少し残念であるが昨日の土手の風景から続いて今年の最後の投稿として残したいと思う。



2017年12月30日土曜日

初冬の土手

初冬と言っても晩秋に近い頃の土手の風景。

天候が良かったせいで初冬らしくは無いが久原山を見ると晩秋の彩を備えている。

「土手」というのは三隅川中流域下手の土手沿いの集落で現代の字名(あざめい)から言われてきたと思われる地名である。
風土注進案の整備されたころはこの地名は無いようだ。

2017年12月03日撮影-1
 川面に映る久原山の姿が絵になる。


2017年12月03日撮影-2

2017年12月03日撮影-3

2017年12月03日撮影-4

旧三隅町役場の建屋が撤去されて10ヶ月(2017年2月に更地になった)が経ったが少しづつ更地に目が慣れてきた。



2017年12月03日撮影-5

2017年12月03日撮影-6
JA三隅支所の建屋は久原山を背景にするととっても絵になる。


私にとっての土手の町並みは「商人の町」であるというイメージが強い。行政施設や学校施設を除くといろいろなお店が並んでいる風景が思いおこされる。

郵便局、森林組合、本屋さん、建材店、飲食店、呉服店、医院、文具店、食料品店・・・思い起こすと色々な風景が脳裏を過るがそれぞれのお店との関りが風景と共に想い出となっている。



2017年12月29日金曜日

蜃気楼のような風景

約4年前に野波瀬の地蔵崎に行った時のこと。

野波瀬漁港の西の波止場から松島方面を眺めた時にびっくりしたことがある。
一瞬、蜃気楼?かと思うような島々の風景が目に飛び込んできた。

普段眺めている風景と遠近感がまったく違って見えるのだ。遠くの島々や遠くの町がすぐ近くに見えていたのだ。

2014年01月15日撮影-1
松島の背景に巨大な島が見えて いるが笹島だろうか?
いやもしかすると鯖島が見えているのか?



2014年01月15日撮影-2
手前左側に濃く幸島が写っているがその向こう側が大島?だろうと思う。その右手が笹島でその後ろにうっすらと見えるのは相島のはず。

もしそうだとしたら笹島の右後ろに見えるのは青長谷(玉江、三見間)の端か?

地形図を見ても方向と位置関係が微妙にずれていてサッパリつかめない。


2014年01月15日撮影-3

2014年01月15日撮影-4
上の写真の左が通で右後ろが大島?、手前が幸島の西の端。


天候とお日様の位置による自然の悪戯だろうが普段見えないものが見えたりするとちょと怖さを感じてしまったりする。地殻変動で島が近づいてきたような感覚に襲われた。

間違いを正すために島々の位置図をアップしておくことにした。

三隅の周りの島々
2016年12月15日撮影
上の写真は昨年の12月に「いこいの森」に上がったときのオーシャンビューの説明パネルだ。

眺める場所が変わると山の形が変わって位置関係がわからなくなることがある。



2017年12月28日木曜日

広田の雪化粧

今年は12月になって何度か雪がちらついたが積雪と呼べるような雪はまだ三隅には降っていない。東北や北海道では猛吹雪や寒波で大変な中、17日(日曜日)の午前中に長靴を履いて出かけてみた。

「積もった」という言葉は似合わないが薄っすらと餅とり粉を振ったような景色だった。それはそれできれいだと思えた。


2017年12月17日撮影-1
寒そうな空が岳の山に被さっている。



2017年12月17日撮影-2



2017年12月17日撮影-3

2017年12月17日撮影-4

2017年12月17日撮影-5
山の樹木が白くないのが不思議だったが融けた後だったのか。

黒瓦や赤瓦がすべて白くなってしまうこの風景は北浦においては数えるほどしかやってこないが、そんな悠長なことを言ってはおれないほど北日本は猛烈な寒波のようだ。


【後記】
小学生の頃、正月用の餅を家族が搗いたあとに、藁ゴザ(簟?)の上に餅を並べると「餅とり粉」が藁(ワラ)のすき間に入り込んで、枯草の上に雪化粧をしたような色合いになりじっと眺めていた想い出がある。
藁に染みた粉がもったいないと思いながら眺めていた記憶だ。



2017年12月27日水曜日

師走のフィッシャリーナ

昨年の12月に所用で小島に行った時に、帰りにフィッシャリーナに寄ってみた。

2016年12月18日撮影-1

2016年12月18日撮影-2
住友セメントのタンカーは仙崎湾のシンボルになろうとしている。ベルトコンベアとお揃いの色で塗られたタンカーが青海島に良く似合うのだが空気が霞んでいていまいちの写真になってしまった。


2016年12月18日撮影-3
こんな浮いた桟橋の下に大物のメバルなんかが潜んでいる。
私の場合、船やクルーザーより釣りの方に興味が偏ってしまう。



2016年12月18日撮影-4
和田の鼻がきれいに見えていた。



2016年12月18日撮影-5
中学生?が釣りをしていた。とっても真剣でちょっと話しかけづらい雰囲気であった。 自分も小・中学生の頃、寒さに負けず一人でよく釣りに行っていたことを思い出した。何も釣れなくても大物を狙う気合だけは伝わってきた。



v2016年12月18日撮影-6
帆をたたんだヨット?か、船底が珍しいので撮影してみた。私は珍しく思ったがその業界ではたぶん当たり前の格好なのだろう。船底に黄色のストライプが入っていれば向こうに見えるVOLVOが良く似合うと思った。

穏やかな冬の海は撮影したいと思うシーンが多い。



2017年12月26日火曜日

扇山のこと

以前ここで「扇山から」という三隅民謡を紹介したが、「扇山」という山はあまり知られていないように思う。

扇山: 別名「高畑山」又は「奥大里山」と言い標高は514mである。その名のとおり大里(だいり)地区の東背になり反対側は萩市の北木間(きたこま)地区に当たる。

このように説明してもなかなか分かりづらいのでとってもよく見える位置から写真を撮ってみた。

2017年12月23日撮影-1
最初は一の瀬地区の上方の三の瀬(そうのせ)橋からの風景。



2017年12月23日撮影-2
次は落志畑の県道からの風景。遠くに防長バスの落志畑回転場が写っている。 落志畑行きのバスはここでUターンをします。



2017年12月23日撮影-3
県道28号小郡・三隅線の旧三隅町境界近くのカーブから。ここからの風景が扇山がいちばんよく見える場所なのだが急なカーブなので運転中は見てはいけません。

尾根がゆるいスロープで柔らかな(丸っこい)感じがする山です。

ところで「落志畑(おとしばた)」の地名が一般的な地図や国土地理院の地形図は「落畑」となっている。古くからの地名は字名として「落志畑」だと思っているが使い分けがあるのかもしれない。ただのミスだったらぜひとも修正してほしい。



2017年12月24日日曜日

「ひよっこ」の頃

今年の春から始まった連続テレビ小説「ひよっこ」の時代設定が昭和41年から42年にかけての時代で(1966年から1967年のころ)、自分はテレビにくぎ付けの小学生だった時代のことだ。

ウルトラマンやウルトラセブンに夢中で日曜日の午前中の放送(首都圏エリアから1週間遅れの放送)が楽しみだったころに、もう一つとっても記憶に残っている番組があった。

同じく日曜日の午前中だったと思うがウルトラシリーズの前後どちらかに放送された「兼高かおる 世界の旅」という番組だ。

これもTBS東京放送の番組で、KRY山口放送(日テレ系列)の系列違いなので記憶が前後して覚束ないのだが頭の中ではウルトラマンとセット番組なのだ。(この頃はまだTBS系列のTYSテレビ山口はまだ開局していなかった。)

「みゆき野球教室」(日テレ系列)もたまに見ていた。

三井グループの提供で「三井ワールドアワー」という言葉で始まるこの番組はなぜか魅力的で毎週見ていた。

1966-1

1966-2

1967
パンアメリカン航空の協力?による当時としては画期的な放送で兼高かおるさんが世界中を旅して国々を紹介していく番組で、芥川隆行さんの語りと進行が兼高かおるさんの説明と喋りをとても魅力的なものにしていた番組で、お二人の品の良さと世界中の見たことのない景色を小さなテレビ画面で満喫していた。

今思うとこの記憶が後のFMラジオ放送の「ジェットストリーム」につながっていったように感じる。

昭和41年というとビートルズの来日公演や連続テレビ小説「おはなはん」の時代で、高度成長期に向けて変わっていく時代のプロローグであったと今になって思う。

昭和42年は私にとってみればGSブームやツィーギー来日の頃で、この頃に初めてカラーテレビを見たように思う。

当時の「ビートルズ」、「GS」、「ツィーギー」とすべて反体制的(または反教育的)なものでテレビに映るたびに親が文句を言っていたように思う。特にビートルズとGSの髪型には特異な反発を見せていたことを小学生ながら思っていた。

外国から入ってくるものが日本の慣習や風潮に合わない場合、一旦は阻害される時代だが今思うとそれはそれで面白く思える。

いつの時代も若者が好きなものは年寄が一旦文句を言う、そしてその年寄になろうとしている自分がいることが楽しい。けっして嫌ではないのだ。




2017年12月22日金曜日

昭和41年の頃

三隅町が「健康の町」宣言をした昭和41年(1966年)の夏のこと。
(三隅町では稲田町政が終焉を迎えるころ)

当時小学生だった私は毎週日曜日の朝がやって来ることが楽しみでしかたがなかった。それは「タケダ、タケダ、タケダーー」で始まるウルトラマンなのだ。(その前のウルトラQもそうだった。)

資料

毎週日曜日の朝10:30から始まるタケダアワーは関東エリアでは東京放送(現TBS)が日曜日の夜7:00から放送していたらしい。
ここ山口県では当時の民放はKRY山口放送のみでこちらは日本テレビ(日テレ)系列なのだ。KRYは1週間遅れで放送していたらしい。

確証はないがウルトラマンが始まった夏休みの頃に、今の県道野波瀬港線(小波橋から野波瀬へ向かう道)が全面舗装工事を施行していて、水路に並走して立てられたコンパネの破片で足にケガをした記憶が残っている。つまり昭和41年以前はこの道は舗装されておらず砂利道だったということだ。

2007年04月08日撮影-1

2007年04月08日撮影-2
上の2枚の写真は今から10年前の向山地区の県道野波瀬港線の写真。

さすがに砂利道の頃の写真は無かったが10年前でも今とかなり違う風景なのだ。若い方は、こちらの写真の方が懐かしいかもしれない。





2017年12月21日木曜日

続・長門市駅と「みどりの窓口」のこと

話しは昨日の続きになるが、高校生の時に修学旅行(昭和49年で行先は京都・大阪・奈良だった)に行ったとき、まだ山陽新幹線は新大阪ー岡山間しか開通しておらず、厚狭駅か小郡駅のどちらかから山陽本線で岡山駅までL特急という昔の在来線のこだま号のような電車に乗って行き、岡山から新幹線に乗った記憶がある。

昨日の長門市広報の資料からすると長門市駅に「みどりの窓口」が出来たころに修学旅行に行っていたわけだ。1974年(昭和49年)のことである。山陽新幹線が博多まで出来ようとしていた頃に長門市駅はまだSL(D51)がぎりぎり走っていた。国鉄長門市駅に最新型の電子計算機が導入され、新幹線ひかり号の指定席が予約できる横で黒煙が上っていたわけだ。なんだか嬉しくなってしまうお話しだ。



2014年05月29日撮影
長門市駅を南側から観た風景。

下は長門市駅発行の硬券の記念切符。
平成6年6月6日の記念入場券

1.2.3の記念入場券


ところでこの座席予約装置マルスの話だが、東京都の国分寺市光町という場所にその昔「国鉄総合技術研究所(略称:技研)」という施設があり、その施設の中?の大型コンピューターが全国の鉄道車両の指定席等を賄っていたわけだが・・・


「申込から切符の出来上がるまで約15秒」と記載されている。
長門市駅から東京都の国立駅の近くまで照合して発券まで15秒なのだ。
すばらしい技術だ。

参考:技研は住所としては「東京都国分寺市光町」だが最寄り駅は「国分寺駅」ではなく「国立駅」である。
この住所の「光町」の由来がとっても好きだ。(国分寺市のホームページより)


「切符」という言葉だが今の時代は「スイカ」や「パスモ」に代表されるように電子マネー化されて「切符」という言葉が無くなってしまうのでは?と思う。入鋏バサミも見なくなったし死語になりそうだ。



2017年12月20日水曜日

長門市駅と「みどりの窓口」のこと

昭和50年の高校3年生になった頃に山陽新幹線の岡山ー博多間が開通して就職や大学受験に小郡駅(現、新山口駅)から新幹線で行けるようになった。ひかり号とこだま号しかない頃のことだ。

これは微かな記憶だが当時、山口県立大津高校に国鉄長門市駅から職員さんが来てくれて大学受験のための切符の予約を一括でしてくれて、後日料金と引き換えに切符をもらえたという記憶があるのだがその切符(乗車券)が硬券で、手書きで「小郡から東京23区内」と書いてあったように覚えている。そして指定席券は薄い緑色の用紙で「国鉄」と透かしのような字が書いてある切符だったと思う。
記憶違いかもしれないがこの薄い緑色の特急券や乗車券が「みどりの窓口」の語源になったと聞いたことがある。

そこで長門市駅の「みどりの窓口」だが・・・

2012年06月25日撮影-1
過去にこの正面玄関を入ってすぐ左に「長門市駅旅行センター」と書かれたカウンター部屋があったのだがいつの間にか消え去っていた。

駅舎左手にあった国鉄時代の「小荷物扱所」も懐かしいが跡形も無くなっている。さらに過去には正明市駅前には日本通運の倉庫があったのだ。


2012年06月25日撮影-2


2012年06月25日撮影-3

2012年06月25日撮影-4

駅舎の中(待合室など)が小ざっぱりして夕刻なのに寂しさが漂っていた。

「みどりの窓口」の看板が上の方にあり何処がその窓口なのか分かりづらい印象を持った。
2012年12月28日撮影-1

2012年12月28日撮影-2

下の長門市広報の切り抜きを見ると昭和49年に「みどりの窓口」が出来ているようだ。3月20日オープンの予定が4月1日に変更になっている。

昭和49年2月?長門市広報

昭和49年3月長門市広報
最新型の電子計算機による座席予約装置が設置されたと書いてある。

コンピューターと書かれずに電子計算機と書かれていることが微笑ましく思う。座席予約装置というのは専門用語で「MARS(マルス)」というのだがこの当時に全国の特急などの指定席券が長門市駅で発券できることが驚異だった。

・・・次回に続く。




「帰ル堤」のこと

 長門市東深川の旧街道(赤間関街道)沿いに「帰ル堤(かえるづつみ)」という溜め池がある。 現在の長門総合病院前の道筋を西に進み、緑ヶ丘にて国道191号線に沿うように街道を進むと直ぐに左手にため池が現れる。このため池はいつの頃からか「帰ル堤」と呼ばれ、そこに大きなエノキがあったらし...